西 暦 | 三国志関連の出来事 |
◇黄巾の乱 〜 呂布の最期 |
168年 | 霊帝、即位する。 |
184年 | 黄巾の乱(○何進・皇甫嵩・朱儁vs張角・張梁・張宝×)張角 病死、張梁・張宝 戦死 劉備・関羽・張飛三義兄弟による桃園の誓い。 曹操、孫堅、劉備らが討伐軍に加わる。 |
185年 | 宦官13人が列候となる。 涼州争乱(○張温・董卓・孫堅vs韓遂・辺章×)涼州にて董卓・孫堅が韓遂・辺章を討伐。討伐には成功したものの、孫堅と董卓との間に不和が生じる。 |
187年 | 涼州争乱(○董卓vs韓遂・馬騰×)韓遂が再び反乱、馬騰もこれに加わる。抜本的な鎮圧にはいたらず、馬騰と韓遂は以後涼州で勢力を保つことになる。 幽州侵攻(○劉虞・公孫瓚vs張純×)張純、張挙と共に烏丸の丘力居(きゅうりききょ)を仲間に引き込み反乱。 区星の乱(○孫堅vs区星×)孫堅が長沙で反乱を起こした区星を討伐。荊州南方を平定。勢力拡大を図る。 |
188年 | 益州騒乱(○劉焉vs黄巾賊×)劉焉、益州を平定する。 |
189年 | 霊帝が崩御、少帝(劉弁)が即位。何進は宦官の蹇碩(けんせき)を誅殺、外戚の董重と董太后を殺害。 何進謀殺(○十常侍vs何進×)張譲ら十常侍は報復として何進を謀殺。 宦官誅殺(○袁紹vs十常侍×)袁紹・袁術・曹操らが十常侍をはじめとする宦官を一掃。 董卓の乱 董卓が圧倒的な軍事力を背景に入京、少帝を廃して献帝(劉協)を即位させ、自分は相国となる。 董卓、呂布を裏切らせ邪魔者の養父丁原を殺し、権力を掌握する。 袁紹、袁術、曹操らは都を離れる。曹操が陳留にて挙兵、董卓打倒の檄文を全国の諸侯へ送る。 |
190年 | 関東州郡挙兵 袁紹を盟主として反董卓連合軍結成するが、利害の不一致から戦意に乏しく、一致団結とはいかず行動を起こせず。その中でも積極派の曹操と孫堅は単独で仕掛け、共に負けを期す。 水関の戦い(しすいかん)(×連合軍・孫堅vs華雄○)(○関羽vs華雄×)華雄 戦死 孫堅、軍勢を立て直し董卓軍の最前線である洛陽への入口水関に迫る。華雄、関羽により「酒も冷めぬうちに」討ち取られる 虎牢関の戦い(ころうかん)(○劉備・関羽・張飛vs呂布×)水関・虎牢関と敗れ危機を感じた董卓は、李儒に命じて少帝を殺害、献帝を洛陽から長安に移し遷都する。 これをきっかけに反董卓連合軍は崩壊し、諸侯たちはそれぞれの兵士を引き連れて根拠地へと引き返していく。 劉表が荊州に入る。 |
191年 | 洛陽攻防戦(○孫堅vs董卓×)洛陽に一番乗りした孫堅「玉璽」入手。玉璽をもって反董卓連合から離れる。 袁紹、韓馥から冀州(きしゅう)を取り公孫瓚(こうそんさん)と対立。、曹操は東郡の太守となる。 二袁の争い(袁紹vs袁術)袁紹・劉表・曹操および袁術・公孫瓚・陶謙・孫堅がそれぞれ同盟する。 |
192年 | 襄陽の戦い(×孫堅vs劉表・黄祖○)袁術の意を受けた孫堅、劉表を攻めるが黄祖に敗れ戦死。孫策が後を継ぐ。 界橋の戦い(○袁紹vs公孫瓚×)皇帝の勅旨により両者は一時的に和解するも、両者の関係は修復不可能となる。 董卓誅殺 王允と娘の貂蝉(ちょうせん)による「美女連環の計」により董卓が呂布に誅殺される。 長安の動乱(○李傕・郭vs呂布×)呂布が董卓の部下李傕(りかく)・郭(かくし)に敗れ長安脱出。王允処刑される。 青州黄巾賊討伐(○曹操vs黄巾賊×)曹操が青州の黄巾賊を平定し、配下に加える。青州兵の誕生。 |
193年 | 匡亭の戦い(きょうてい)(○曹操vs袁術×)曹操が袁術陣営の高唐の劉備、平原の単経、発于の陶謙らを打ち破るに至って、ついに袁術は一大軍事行動を起こす。曹操の本拠地、豫州陳留に攻め込むが、敗れた袁術は淮南に向かい、揚州刺史の陳温を殺して寿春を本拠とする。 徐州大虐殺(○曹操vs陶謙×)陶謙が徐州の牧となるが、陶謙配下の張闓に父曹嵩を殺された曹操は徐州大虐殺。 公孫瓚が幽州牧の劉虞と戦い、これを捕らえて殺す。 |
194年 | 曹操が再び徐州を攻め、陶謙は劉備に救援を求める。 濮陽の戦い(ぼくよう)(×曹操vs張邈・呂布○)夏侯惇 失眼、徐州大虐殺に不信を抱いた陳宮の策で、張邈(ちょうばく)が呂布と結んで曹操の本拠地兗州(えんしゅう)濮陽で謀反を起こす。曹操兗州の大半を失う。呂布は兗州の牧となる。 陶謙が病死、劉備がその跡を継ぎ徐州の牧となる。 孫策、江東に帰り周瑜を幕下に加える。 江東攻略戦(○孫策vs劉繇×)孫策、袁術に玉璽を質入れし挙兵、揚州刺史劉繇(りゅうよう)を破り、孫一族の旧領地を奪回する。太史慈が孫策配下となる。 |
195年 | 定陶の戦い(ていとう)(○曹操vs呂布×)曹操、荀ケの勧めもあり徐州よりまず先に兗州(えんしゅう)の攻略に力を注ぐことを決意。兗州の交通の要である定陶に攻め込み兗州の覇権を奪回、兗州の牧になる。呂布・陳宮は劉備を頼り落ち延びる。劉備、各国から狙われる徐州を守るため、小沛を呂布にあたえ各国に睨みを利かせる。 鮑丘の戦い(○袁紹vs公孫瓚×)袁紹が「反公孫瓚勢力」を結集して、公孫瓚に大勝する。 |
196年 | 淮陰の戦い(わいいん)(×劉備vs袁術・呂布○)陶謙の死を知った袁術が徐州を奪うため劉備軍に攻撃をしかけ大勝する。呂布が叛旗を翻し、守将の張飛を追い出し下邳城を奪う。劉備は一時呂布の配下となり小沛を譲られる。 曹操は荀ケの献策で献帝を洛陽に迎えて自らも上京して録尚書事となる。都を許に移し献帝も許に移す。 袁術が劉備を攻めるが、呂布の「轅門射戟(えんもんしゃげき)」の仲介によりお互い兵を退く。 下邳争奪戦(×劉備vs呂布○)下邳を取り返そうとした劉備、呂布に小沛から追い出され、曹操の下に身を寄せる。 孫策、呉郡太守(許貢)、会稽郡(王朗)、豫章郡(華歆)、丹陽郡(袁胤)を服従させ、呉の基礎を築く。 |
197年 | 袁術、天子僭称し仲を建国するが、諸群雄の同意を得られず。この時に呂布と同盟をしており、諸侯が呂布討伐に苦慮していたため他国による攻撃は限定的なものであった。 宛攻防戦(×曹操vs張繍○)曹昂(曹操長男)・曹安民(そうあんみん、曹操甥)・典韋 戦死 張繍(張済の甥、宛城主)曹操に降伏し宛城(えんじょう)を明け渡す。曹操が張繍の叔父の張済の妻、鄒氏に手をつけたため、張繍軍が曹操陣を急襲、曹操軍は壊滅。 陳の戦い(○曹操vs袁術×)曹操・劉備・孫策・呂布、袁術を破る。李豊らを残して逃げ出した袁術の勢力は壊滅。 |
198年 | 下邳落城(かひ)(○曹操・劉備vs呂布×)呂布・高順・陳宮 斬首 劉備は献帝に拝謁しで左将軍に任命される。 |
199年 | 易京の戦い(○袁紹vs公孫瓚×)袁紹との戦いに度々負け、易京に追い込まれていた公孫瓚を攻める。袁紹は地下道を掘り易京を攻め、内部分裂を起こした公孫瓚軍は壊滅。公孫瓚は自害。 曹操達群雄の攻撃を受けた袁術は国を失い、袁紹の元へ逃亡途中に病死。 劉備、徐州で曹操に反旗を翻し下邳を取り、袁紹と結ぶ。 江夏・江陵の戦い(○孫策vs黄祖・陳登×)孫策が父の敵、江夏太守の黄祖を破る。 |
◇官渡の戦い 〜 長坂の戦い |
200年 (建安5年) | 董承の乱(○曹操vs董承×)皇帝より密詔をうけた董承(とうしょう)を首謀者に、劉備も名を連ねる曹操暗殺計画が事前に発覚、董承以下皆捕らえられ処刑。 ◇小沛の戦い(○曹操vs劉備×)曹操、暗殺計画に名を連ねた劉備を小沛に攻める。意表を衝かれた劉備は妻子も兵も置き去りのまま袁紹を頼って冀州に逃げ、関羽、張飛ともバラバラになる。関羽は曹操に捕らえ客将となる。 △白馬の戦い(×于禁vs顔良○)(○関羽vs顔良×)顔良 戦死、官渡の戦いの前哨戦。 △延津の戦い(○曹操vs文醜×)文醜 戦死、官渡の戦いの前哨戦。 孫策は、曹操・袁紹対戦の隙を狙い、許都襲撃を計画するが刺客(許貢の部下)に殺され、孫権が後を継ぐ。 △官渡の戦い(○曹操vs袁紹×)淳于瓊 戦死、曹操が袁紹の烏巣(うそう)の兵糧基地を焼く。劉曄(りゅうよう)発石車発案などで袁紹軍壊滅。 |
201年 | △倉亭の戦い(そうてい)(○徐晃vs袁尚×)官渡で曹操に敗れた袁紹は一度帰るが、長子の袁譚、末子の袁尚が軍を率いて加勢に来たことで力を得、倉亭まで繰り出し再び曹操に戦いを挑むが、程c(ていいく)の「十面埋伏の計」に敗れ帰還する。 ◇汝南討伐戦(×劉辟・劉備vs曹操○)劉備、曹操軍の不利を見て許都をつかんとした劉辟の援護に向かい、汝南を出て曹操の後方を脅かす。曹操は曹仁を派遣して応戦し、劉備・劉辟を破る。敗れた劉備は劉表の元へ身を寄せる。 |
202年 | 袁紹が病死して、長子の袁譚と異母弟袁尚が争う。 △黎陽の戦い(○曹操vs袁譚・袁尚×)曹操、黎陽に駐屯する袁譚・袁尚を破る |
203年 | 袁尚に敗れた袁譚が平原に立て篭もり曹操に降服する。曹操黎陽に着陣、袁尚は平原の包囲を解き鄴に帰還する。 |
204年 | △鄴攻防戦(ぎょう)(○曹操vs袁尚・審配×)曹操が袁尚を倒し河北を平定し遷都する。袁尚中山へ逃亡。 袁譚、平原を放棄し南皮へ逃げる。曹操、平原入城。 |
205年 | △南皮の戦い(○曹操vs袁譚・郭図×)袁譚、曹操に背くが敗死、曹操青州を平定する。 袁尚・袁煕は烏丸(うがん)に逃げる。 張燕が曹操に帰順。并州(へいしゅう)、幽州(ゆうしゅう)も帰順し河北を平定する。 |
206年 | △壺関の戦い(○李典・楽進vs高幹×)并州で曹操に反旗を翻した袁紹の甥、高幹を討つ。 |
207年 | △白狼山の戦い(○曹操vs袁尚・袁熙×)曹操、張遼を先鋒として出撃させ、烏丸・袁尚・袁熙と戦い勝利を収める。袁尚・袁熙は遼東へ逃亡。公孫康が逃げてきた袁尚・袁熙の首を曹操に送る。 郭嘉病死。 劉備、劉表のお家騒動に巻き込まれ蔡瑁(さいぼう)・蒯越(かいえつ)が謀殺を計るが、凶馬的盧で檀渓を跳ぶ。 劉備は徐庶を軍師に迎え、曹仁の「八門金鎖」の陣を撃破して樊城(はんじょう)を占領する。 魏の程cの計により、徐庶は諸葛亮を劉備に紹介して蜀を去る。 劉備、古隆中(こりゅうちゅう)に孔明を訪ね「三顧の礼」を尽くして諸葛亮(臥龍・伏龍)を軍師に迎える。 |
208年 | 江夏の戦い(こうか)(○孫権vs黄祖×)黄祖 戦死 ◇博望坡の戦い(×夏侯惇vs諸葛亮○)諸葛亮、デビュー戦。諸葛亮の火計にかかり夏侯惇、潰走・大敗。 劉表が病死して後継争いが起こり、曹操、南征して荊州に軍を進める。後を継いだ劉jが曹操に降伏。 諸葛亮、新野城焼いて逃げる。 ◇長坂の戦い(ちょうはん)(○曹操vs劉備×)夏侯恩 戦死、超雲(単騎駆け)、張飛(長坂橋仁王立ち)らの活躍で江夏に落ち延びる。 |
◇赤壁の戦い 〜 三国鼎立 |
208年 | 諸葛亮を派遣して孫権と同盟を組む。 孫権は張昭らの反対を退け、魯粛・周瑜らの意見で曹操との決戦を決断。 ☆三江口の戦い(×蔡瑁・張允vs甘寧・韓当・蒋欽○)赤壁の戦いの前哨戦。赤壁よりも下流の三江口で呉の水軍、甘寧・韓当・蒋欽を率いた周瑜が、蔡瑁・張允を先鋒とした魏水軍を破る。 ☆◇赤壁の戦い(×曹操vs孫権・劉備○)孔明の十万本の矢「草船借箭の計」、長江南岸南屏山の「七星檀」で東南の風を呼ぶ、呉の黄蓋の偽装投降「苦肉の計」、龐統の「連環の計」、周瑜の「火計」で曹操の大軍を退ける。 曹操に恩義のある関羽、華容道(かようどう)で曹操を見逃す。 曹操は江陵に曹仁・徐晃を、襄陽に楽進を、合肥に張遼を、残して許都に退却。 |
209年 | ☆合肥城包囲戦(○張遼vs孫権×)太史慈、討死 孫権、援軍に駆けつけた魏の蒋済(しょうさい)の大軍救援偽情報の計略にはまり軍を引く。魏、呉の揚州侵攻を食い止める。 ☆夷陵城攻防戦(×曹仁vs甘寧○)甘寧、簡単に城を攻め落とすが、逆に城を包囲され夷陵の城に閉じ込められる。 ☆江陵城包囲戦(×曹仁vs周瑜○)周瑜は流れ矢を受け、一時指揮不可能に陥りながらも、気力を振り絞って江陵城を攻撃。ついに曹仁を退却させ、江陵を落とすのに成功。 ☆南郡攻防戦 孔明、周瑜と曹仁が対戦している隙をつき、南郡(超雲)・荊州(張飛)・襄陽(関羽)の荊州要地三城を奪う。荊州での魏の勢力は大きく後退する。 ◇荊州四郡制圧戦 南部四郡(零陵(劉度降伏×)・桂陽(○趙雲vs趙範×)・武陵(○張飛vs金旋×)・長沙(○関羽vs韓玄×))を得る。韓玄配下の黄忠、魏延が劉備配下になる。 劉備の急拡大に恐れを感じた孫権、妹孫尚香と劉備を政略結婚。 |
210年 | 周瑜、柴桑(さいそう)にて憤死。 |
211年 | 劉備、龐統(鳳雛(ほうすう))を得る。 関中征伐(×曹操vs馬超・韓遂○)曹操、漢中の張魯討伐のため出兵。馬超・韓遂が挙兵し長安を奪取する。 潼関の戦い(どうかん)(○曹操vs馬超・韓遂×)賈詡(かく)の「離間の計」で馬超・韓遂の仲を裂き曹操が勝利。関中(長安を中心とした関中平原。函谷関の西、隴関(ろうかん)より東の渭水盆地一帯)を平定。 曹操、馬超の挙兵の責任を問い、都にいた父の馬騰と一族二百人あまりを皆殺しにする。 劉備、張松より「西蜀地形図」を献じられ、劉璋は益州・涪城(ふじょう)に赴き、劉備の入蜀を出迎える。 |
212年 | 孫尚香、帰国。 孫権、秣陵(まつりょう)を建業(今の南京)に改め本拠地に移す。 荀ケ、曹操の魏公就任に反対して自殺。 劉備と劉璋開戦 曹操が孫権を攻め、劉璋の要請で張魯討伐のため葭萌(かぼう)に駐屯していた劉備に、孫権から救援要請が来る。この援助要請を劉璋に出したが、これを劉璋が渋ったことから両者は決裂し、龐統の進言を聞き入れ、呉への援軍を口実に兵力移動の隠れ蓑にし劉璋に叛逆し、軍勢を引き返す。劉備軍は劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺し、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始める。 |
213年 | 曹操が魏公となる。 冀城攻防戦(きじょう)(○楊阜・夏侯淵vs馬超×)馬超が雍州で反乱を起こすが、楊阜らに敗れて張魯を頼る。 涪水関攻防戦(ふすいかん)(○魏延・黄忠vs冷苞・ケ賢×)冷苞 生捕り、ケ賢 射殺 魏延は功を争って出陣したが黄忠に助けられる。 雒城攻防戦(らくじょう)(劉備vs劉循)劉備、劉璋の成都防衛の拠点・雒城(らくじょう)に軍を進めるが、劉循(劉璋の息子)の抵抗に遭い1年に亘って前進が停止する。張任の死により雒城は陥落。 |
214年 | 緜竹関の戦い(めんちくかん)(○龐統vs張任×)龐統が落鳳坡で劉備と間違えられて射殺。この窮地に、荊州から諸葛亮(涪水(ふすい)を遡り大渡より涪城の後方に)・趙雲(南方の江陽から成都へ)・張飛(巴郡より葭萌方面へ)が駆けつける。 巴城攻防戦(○張飛vs厳顔×)太守・厳顔を生捕り、賓客として厚くもてなす。以後は劉備の家臣となる。 葭萌関の決闘(かぼうかん)(張飛vs馬超)馬超が張魯の命で劉璋の救援に向かうが、結局劉備に帰順配下となる。 金雁橋攻防戦(○劉備vs張任×)諸葛亮、計略により金雁橋に出撃した張任を捕らえる。張任 斬首。 成都攻略戦(○劉備vs劉璋×)劉備、諸葛亮・趙雲・張飛らの援軍を得て成都を陥落させ、劉璋から益州牧を奪う。 魯粛、劉備に荊州返還迫る。 吉本の乱(きつぽん)(○曹操vs伏一族×)伏皇后・伏完一族と太医令・吉本が、劉備の援助を期待して反乱するが、鎮圧され曹操に殺される。 |
215年 | 陽平関の戦い(○曹操vs五斗米道・張魯×)劉備の蜀平定に危機感を抱いた曹操、漢中を平定する。 荊州領有問題 劉備、伊籍を派遣し荊州の一部返還を申し出るとともに、呉に合肥を攻めるよう持ちかけ和睦する。東部の江夏・長沙・桂陽の三郡は呉に、西部の南郡・武陵・零陵の三郡は蜀に。 |
◇合肥の戦い 〜 曹操の死去 |
215年 | ☆皖城攻防戦(かんじょう)(×魏軍vs呂蒙・甘寧○)荊州三郡返還の和睦条件を履行するため、先鋒を呂蒙と甘寧に命じて、自らは周泰とともに中軍を務め、手始めに合肥の前線基地皖城を落とす。合肥の戦いの前哨戦。 ☆合肥の戦い(がっぴ)(○張遼・李典・楽進vs孫権・凌統×)陳武 戦死 魏に攻め入った孫権率いる大軍勢が、張遼を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫す。凌統も曹操軍の勢いに圧され窮地に陥るが、父を殺した甘寧により命を救われ、以後は親交を深める。孫権は濡須口まで戻って軍勢を立て直す。 |
216年 | ☆濡須口の戦い(×曹操vs孫権・甘寧・周泰○)張遼から援軍の要請を受けた曹操が漢中より駆けつけ、濡須まで軍を進めるが、孫権はこれを守り切る。孫権はこれ以上の戦いを避け曹操と和睦する。 三国の伝説的な名医である華佗、瀕死の周泰の傷を治療する。 許昌に戻った曹操は魏王となりさらに威勢を振るう。一方、曹操の矛先を交わした劉備は、虎視眈々と漢中を窺う。 |
218年 | 韋晃の乱(○曹操vs韋晃×)曹操の専横政治に対し憤っていた韋晃、耿紀らが、献帝の権威を取り戻そうと、許昌で曹操への謀叛を起こすが鎮圧される。 楽進、死去。 ◇巴西の戦い(×張郃vs張飛○)漢中を平定した曹操、張郃を南下させ巴西・巴東を陥落する。劉備、張飛に張郃への対処を命じ、張飛、張郃軍を壊滅し張郃は漢中の南鄭(なんてい)に退却。 ◇漢中争奪戦(○曹洪・曹真・曹休vs呉蘭・雷銅・張飛・馬超×)呉蘭・雷銅 戦死 劉備漢中攻めとして、劉備は陽平関、張飛は固山、馬超・呉蘭は下弁と、大軍を持って攻略する。曹操も漢中を守る夏侯淵と張郃を支援すべく曹洪に5万の軍を与え下弁へ派遣する。曹洪の総攻撃を受けた呉蘭の軍は大敗し、下弁を守る馬超も大軍と勢いには敵わず敗走、張飛も孤立し退却を余儀なくされ、劉備がいる陽平関へ終結しここを守り切る。 |
219年 | ◇定軍山の戦い(ていぐんざん)(×夏侯淵vs黄忠○)夏侯淵 戦死 劉備、法正の進言により黄忠に命じて張郃救援で半減した漢中守備軍の夏侯淵の本隊を攻撃し夏侯淵を討ち取り、漢中の本拠地南鄭を占領する。 ◇漢中の戦い(×曹操vs劉備○)曹操親征。定軍山の戦いで惨敗した曹操は自ら大軍を率いて漢中奪回を図る。張郃は20万の大軍を率いて反撃に出るが、黄忠らと再び一進一退の攻防を繰り広げる。劉備軍は劉備・張飛・趙雲・黄忠・諸葛亮・法正といった主力の陣取り防御が固く、やがて戦いは持久戦となり両軍の対峙は半年以上に及ぶ。軍令での曹操の「鶏肋」の言葉を「撤退」と謎解きした楊修は、撤退の準備を開始し曹操軍はそのまま撤退する。 劉備は漢中王となり、益州全部と荊州の半分を領有し孫権以上の大勢力となる。劉禅を後継者に立て、諸葛亮を軍師に任命して国内外を統括させ、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超を五虎大将とする。 劉備の漢中王即位知って激怒した曹操は蜀征討軍の再出兵を命じるが司馬懿が制止。今は孫権と手を結んで共に劉備を攻めるべしと訴え、孫権との同盟に乗り出す。 魏諷の反乱(○曹丕vs魏諷×)魏諷(ぎふう)、劉備が漢中王に就くと関羽に通じ鄴で叛乱を企てるが曹丕により捕らえて処刑される。 ◇樊城攻防戦(はんじょう)(×于禁・龐徳vs関羽○)于禁捕虜、龐徳斬首 関羽、陸遜の「呂蒙、大都督を退任」との偽情報にはまり、全力で樊城攻略に向かう。樊城を守る曹仁は守りを固める。魏の援軍として大将于禁、副将龐徳が駆けつけるが、雨水を貯めておいた堰を切って樊城を水攻めし于禁七軍を大破、襄陽を得る。関羽は腕に毒矢を受けて負傷するが、名医・華佗が骨を削って治療を施す。 ▽荊州城攻防戦(×関羽軍vs呂蒙○)呉の呂蒙、軍船を商船に偽装し、荊州の奥深くに進入、手薄になっていた荊州城を落とす。これに呼応して魏の徐晃が樊城の救援に向かう。樊城を包囲している関羽軍は、魏軍と呉軍の挟み撃ちにあい敗走、荊州城を失った関羽は麦城に逃れる。 ▽麦城の戦い(ばくじょう)(×関羽vs呂蒙・陸遜○)関羽・関平 斬首、周倉・王甫 自刃 関羽、僅かの兵、食料とともに麦城に籠り、上庸の劉封・孟達の援軍を待つが、魏と呉の共同作戦との戦いに敗れ、麦城脱出中に捕まり建業で斬首、荊州三郡(南郡・武陵・零陵)を失う。 呂蒙、病死。 |
220年 | 曹操が洛陽にて没し曹丕が後を継ぐ。 曹丕、漢の献帝を廃して魏を建国し、洛陽に遷都する。 夏侯惇、死去。 関羽が呂蒙に追いつめられたとき、援軍を派遣しなかったことの処罰を恐れて、孟達が魏に降る。 |
221年 | 劉備が漢(蜀)の皇統を継ぎ昭烈帝となり、蜀を建国。諸葛亮が丞相となる。 張飛、部下の范彊(はんきょう)・張達に閬中(ろうちゅう)にて暗殺される。 孫権、魏に臣従し呉王となる。 劉備は親征軍を発し、蜀と呉の戦いの幕が開けた。劉備、関羽の弔い合戦で呉攻めを強行。 于禁、憤死。 |
◇夷陵の戦い 〜 南蛮夷の平定 |
222年 | ▽夷陵の戦い(いりょう)(×劉備vs陸遜○)黄忠・馬良、甘寧・潘璋 戦死 劉備、呉班・馮習らを先鋒として、李異・劉阿・陸遜らが防御していた巫城(ふじょう)と秭帰城(しきじょう)を続けて急襲し短期間に秭帰県までを制圧する。陸遜の本隊は三峡内の全拠点を失うが、陸遜の火計によって蜀軍後方の陣営を次々と陥落させ、蜀軍は馬鞍山まで撤退、大敗・壊滅する。陸遜、追撃の手を緩めず魚腹浦(ぎょふくほ)まで兵を進めるが、孔明がもしもに備えて築いていた八陣の図(石を積み上げた石兵八陣の迷路の罠)に進軍出来ずに兵をひく。劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に帰る。 蜀漢は荊州を完全に失陥する。呉はこの大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色を明確にし、魏に対抗するようになる。 孫権、年号を黄武と定めて呉を建国する。 ☆江陵の戦い(×曹真vs朱然○)魏の曹丕、呉への侵攻を開始し宛城に入りこれを本営とし、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らの軍を江陵に、曹仁の軍を濡須口に、曹休・張遼・臧覇の軍を洞口にそれぞれ派遣する。 |
223年 | ☆濡須口の戦い(×曹仁vs朱桓○)朱桓は曹仁を破って濡須から撤退させる。 ☆洞口の戦い(×曹休vs呂範・徐盛○)張遼 死去 曹休、徐盛の築いた偽城に驚いて撤退する。魏の曹丕、呉攻め失敗、魏軍は総退却する。この戦いで呉と魏の友好関係は切れ、呉は蜀との同盟関係を回復させる。 曹操の従弟、曹仁没する。 蜀は劉備が白帝城にて病死し、劉禅が即位する。 魏の五路の計 曹丕・司馬懿、五路よりの蜀攻め作戦失敗。 (1)鮮卑王軻比能(かひのう)に遼西の羌族を蜀の北に派遣、西平関を攻めさせる(西平関の守りは馬超に任せる) (2)蜀の南の南蛮王、猛獲に益州・永昌・牂柯(そうか)・越巂(えつしゅん)の4郡を攻めさせる(魏延を派遣し擬兵の策で大軍に見せか撤退させる) (3)呉の孫権に長江を上らせ涪城を奪らせる(孫権には陸遜がいる。蜀を攻めるという愚かなことは彼が許さない) (4)蜀より寝返った孟達に上庸から漢中へ攻め込ませる(孟達はもとは蜀の者、彼と親交のある李厳に書状を送る) (5)曹真に30万の大軍で陽平関を攻めさせる(趙雲がこれを防ぐ。陽平関は難攻不落100万の大軍でも落とせない)
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225年 | 益州の乱(○諸葛亮vs雍闓×)蜀の建寧太守雍闓(ようがい)が南王孟獲と結託して反乱を起こすが、趙雲、魏廷、王平らの活躍で永昌城を奪還する。諸葛亮はさらに軍を率い南蛮軍の鎮圧に向かう。 蜀の南征(○諸葛亮vs孟獲×)諸葛亮、北伐作戦(魏への遠征)を最終目標とし後顧の憂いを絶ち、その足場固めのために国境を越えて南王孟獲と決戦、孟獲の妻・祝融夫人との人質交換や孔明考案の火を吐く車による猛獣撃退などで、七度捕われ七度許された(七縱七禽)孟獲が帰順する。 馬超、死去。 |
◇蜀の北伐 〜 伏龍天へ帰る |
226年 | 魏は曹丕が没し、曹叡(明帝)が即位する。鍾繇(しょうよう、鍾会の父)を大傳(たいふ)、曹真を大将軍、曹休を大司馬、司馬懿を驃騎(ひょうき)大将軍に任じる。 |
227年 | 蜀の諸葛亮、北伐に出発する前に、国に残す若い皇帝劉禅を心配し『出師の表』(すいしのひょう)を上す。 渭水攻防戦(○諸葛亮vs夏侯楙×)諸葛亮、趙雲をおとりに使い祁山(きざん)に侵攻、魏軍の総大将夏侯楙(かこうぼう)を退ける。夏侯楙は南安に逃れるが、安定(崔諒)、天水(馬遵)、南安(楊陵)の3城が帰順し渭水一帯を領有、長安を睨む。この時、天水太守馬遵配下の姜維が諸葛亮の策により蜀に降る。 |
228年 | 失脚した司馬懿が復帰する。 孟達の謀反(○司馬懿vs孟達×)司馬懿、新城太守の孟達が諸葛亮と内応し、諸葛亮が長安を攻め、蜀討伐のため長安に親征した曹叡の留守をつき、孟達が洛陽を攻め落とす計略で魏に叛いた孟達を斬る。 徐晃、死去。 ◇街亭の戦い(がいてい)(○張郃vs馬謖・王平×)北伐に出た諸葛亮は天水・安定・南安の三郡を取ったが、魏は司馬懿を繰り出して反撃をする。重要地点の街亭の守りを馬謖に任せるが、彼は命令を無視して山頂に陣を築き、魏軍に水を絶たれ大敗を喫する。諸葛亮は撤退を余儀なくされ関中攻略の拠点で蜀の兵糧庫でもあり、天水・安定・南安の三郡を支える命脈の西城県で司馬懿に包囲されるが「空城の計」で死地を脱し敗戦の責により馬謖を斬る。蜀軍は雍州から撤退、天水・安定・南安の三郡を失う。(第1次北伐) ☆石亭謀略戦(×曹休vs陸遜○)全jら呉軍は待ち伏せて挟み撃ちし、火計を用い曹休軍に襲い掛かり大勝する。 ◇陳倉の戦い(ちんそう)(○郝昭(かくしょう)vs諸葛亮×)街亭の東南にある陳倉城奪取を北伐の要として魏延にこれを包囲させ、衝車、雲梯、櫓などの攻城兵器を用いた攻撃や地下を掘って進むも失敗し、食料が尽き陳倉攻撃を諦め撤退する。(第2次北伐) |
229年 | 呉の孫権が帝位につき、建業に遷都する。 ◇武都・陰平の戦い(×郭淮・孫礼vs諸葛亮・陳式○)張苞 負傷(後に死亡)、郭淮(かくわい)・孫礼を破り、武都・陰平の両郡を平定。(第3次北伐) 趙雲、死去。 |
231年 | ◇祁山の戦い(きざん)(×曹真・司馬懿vs諸葛亮○)張郃 戦死、魏延・陳式(ちんしょく)は箕谷(きこく、vs司馬懿)、馬岱・王平は斜谷(vs曹真)、諸葛亮は先鋒関興・廖化(りょうか)に、主力とともに祁山へ軍を進める。諸葛亮木牛を使って兵糧を運ぶ。長雨が続き食糧輸送が途絶えたことにより、蜀軍は撤退を余儀なくされる。陳式軍令違反で斬首。(第4次北伐) 曹操の甥の曹真、没する。 |
234年 | ☆合肥新城包囲戦(○満寵vs孫権×)同盟国蜀の動きに呼応し孫権は自ら大軍を指揮して合肥の新城を攻撃したが、満寵(まんちょう)らが奮戦し曹叡が寿春到着を待たずに孫権は撤退する。 ◇五丈原の戦い(ごじょうげん)(○司馬懿vs諸葛亮×)諸葛亮 病死。蜀軍と魏軍の対陣は100日余りに及び、8月に諸葛亮が病死し蜀軍は撤退する。蜀軍は諸葛亮の死を伏せ「死せる孔明、生ける仲達を走らす」(孔明の人形を先頭に攻撃を仕掛けたところ、それを見て仲達の兵士は逃げ出した)。蜀は北伐で疲弊した国力を回復するため、内政に専念する。(第5次北伐) 魏延の叛乱(○楊儀vs魏延×)蜀軍内で諸葛亮の後継を巡った内紛が起こり、魏延と楊儀が争い魏延が謀反。魏延は漢中に出奔したが、楊儀は馬岱に追跡させ魏延を斬る。 蜀の蒋琬(しょうえん)尚書令となり、諸葛亮の後継者となる。 |
◇三国時代の終焉 |
237年 | 公孫淵、遼東の地で独立し帯方郡と楽浪郡を支配下におき燕王となる。 |
238年 | 襄平包囲戦(○司馬懿vs公孫淵×)魏の司馬懿、遼東に遠征し反乱を起こした公孫淵を斬る。 卑弥呼が魏に使者を送り親魏倭王に封じられる。 |
239年 | 魏の明帝(曹叡)、没し曹芳即位。曹爽(そうそう、曹真長子)が魏の実権を握る。 蜀の蒋琬(しょうえん)大司馬となる。 |
241年 | 呉の諸葛瑾、没する。 ☆樊城包囲戦(○司馬懿vs朱然×)呉の朱然、樊城を包囲するが、司馬懿軽騎兵を率いて急行しこれを迎撃する。 |
244年 | ◇興勢山の戦い(×曹爽vs王平○)曹爽、蜀に出兵。王平は興勢山に出撃し迎え撃ち、費禕の援軍が到着するまでの時間を稼ぎ撃退に成功する。 呉の二宮事件(孫和vs孫覇)皇太子孫和と魯王孫覇の孫権後継者争い(二宮事件)が激化。 二宮事件に巻き込まれ、孫覇一派の讒言を受けた張休、孫権の命令により自殺。 陸遜は嫡子(孫和)と庶子(孫覇)の区別は明確にすべきとして孫和を擁護するも、孫覇派の讒言で憂死。 |
245年 | 蜀の蒋琬、董允が死去。黄皓が蜀の政治に影響力を持ち始める。 |
246年 | 魏の曹爽、政治を独占する。 蜀の姜維(きょうい)・費禕(ひい)が録尚書事となる。 |
249年 | 正始の政変(○司馬懿vs曹爽×)魏の司馬懿がクーデターを起こし、実権を握り丞相となる。曹爽一族、処刑。夏侯覇、蜀に亡命。 |
250年 | 二宮事件決着 呉の孫権、二宮事件に決着。皇太子孫和を追放、孫覇に自殺を命じ、孫亮(そんりょう、8歳)を皇太子に立てる。 |
251年 | 魏の司馬懿が洛陽にて没し、長子の司馬師が録尚書事となる。 |
252年 | 魏の司馬師、大将軍になる。 呉の孫権が建業にて病死。孫亮が即位し、諸葛格が実権を握る。 ☆東興の戦い(×諸葛誕・胡遵vs諸葛恪○)孫権の死を契機に、魏は諸葛誕・胡遵(こじゅん)らを東興に、王昶(おうちょう)を南郡に、毋丘倹(かきゅうけん)を武昌に進軍させる。呉は諸葛恪自らが東興に出向き、魏軍を打ち破る。南郡・武昌に進軍した王昶・毋丘倹も陣地を焼き払って退却、呉の大勝利に終わる。 |
253年 | ☆合肥新城の戦い(○張特vs諸葛格×)諸葛格、周囲の反対を押し切って合肥新城に攻撃を仕掛ける。司馬師は鎮東将軍の毋丘倹と揚州刺史の文欽を差し向け、高塁を築かせ敵の疲弊を待つ。諸葛恪は数ヶ月間城を力攻めにし、城壁の一部を破壊し落城寸前となるが、合肥新城の守将張特の投降策に嵌まり、かつ文欽に呉軍の退路を押さえられ、退却しようとしたが大敗を喫す。 諸葛恪暗殺(○孫峻vs諸葛恪×)呉の孫峻(孫堅の弟孫静の曾孫)、皇帝の孫亮と謀ってクーデターを起こし、諸葛恪を誅殺し実権を握る。 蜀の費禕、魏からの降将・郭循に殺害される。姜維は費禕の後を受け軍権を握る。 ◇鉄籠山の戦い(×司馬昭vs姜維○)姜維、武都より進撃して南安に篭る陳泰を包囲する。司馬昭、姜維の北伐に対抗して出陣。鉄籠山で姜維に包囲されるが、郭淮・陳泰の活躍で救出される。 |
254年 | 姜維、隴西へ出撃。魏の狄道県の李簡が帰順、魏の将徐質を破るなどの戦果を挙げ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を蜀に連行する。 司馬師暗殺計画 魏帝曹芳、張皇后の父・張緝や李豊らに勅命を下し、司馬師を排斥して夏侯玄を執政にしようと目論むが、事前に事が露見。司馬師、李豊を殺害、夏侯玄・張緝を誅殺、張皇后に死を賜わる。魏帝曹芳を廃し曹髦(そうぼう)をたてる。 |
255年 | 淮南の乱(○司馬師vs毋丘倹・文欽×)魏で毋丘倹(かんきゅうけん)らが司馬師に対して淮南・寿春で挙兵するが、司馬師に鎮圧され、毋丘倹は殺され、揚州刺史・文欽は呉に亡命する。司馬師、凱旋する途中許昌にて死去する。弟の司馬昭が後を継ぐ。 ◇狄道の戦い(×王経vs姜維○)蜀の姜維、夏侯覇らとともに狄道に進出し、洮西で魏を攻め雍州刺史王経に大勝する。王経は狄道城に逃げ、姜維は狄道城を包囲したが、魏の陳泰が救援を率いてきたので退却する。 |
256年 | ◇段谷の戦い(だんこく)(○ケ艾vs姜維×)ケ艾に動きを読まれたために攻勢は失敗し、姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に打ち破られ大敗する。蜀は精鋭外征軍と優秀な部隊長の多くを失い、長安ひいては中原を奪回することは、ほぼ不可能に近い状態になる。軍が弱体化した蜀はこれ以降、防戦一方で国防にも事を欠くようになる。 呉で孫峻病死。従兄弟の孫綝(そんちん)が後を継ぎ呉の実権を掌握する。 |
257年 | 呉の孫亮が親政する。 諸葛誕の叛乱(○司馬昭vs諸葛誕・文欽×)魏の諸葛誕、司馬昭の専横に対抗するとして十数万の兵を率いて淮南・寿春で挙兵する。司馬昭は鍾会・州泰・王基・陳騫ら26万の兵を率いて諸葛誕の討伐に赴き、王基・陳騫らに命じて寿春城を包囲する。援軍要請を受けた呉は文欽・全端・全懌・唐咨ら3万人の軍勢を諸葛誕の援軍に派遣し、文欽らは魏軍の包囲が完成する前に寿春城で諸葛誕と合流する。 諸葛誕が反乱を起こすと姜維は再び軍勢数万を率いて北伐を行う。このとき魏軍は大将軍司馬望が守備を固め、ケ艾が援軍を率いてきた。さらに次の年になって諸葛誕が敗れると蜀軍は戦わず撤退する。 |
258年 | 寿春城が落城し、魏の司馬昭、諸葛誕を殺す。 孫綝暗殺計画 呉帝孫亮は、専横を極める孫綝の排除を図るが事前に露見、孫綝は孫亮を廃し孫休を呉帝にたてる。 孫綝暗殺 呉帝孫休、孫綝の専横に危機感を抱き、参内した際に丁奉、張布に捕えさせ斬殺する。孫綝兄弟をはじめとする一族も全員処刑される。 |
260年 | 司馬昭暗殺計画 魏帝曹髦、司馬昭を殺害するためにクーデターを起こすが、賈充に阻まれ司馬昭に殺される。新帝に曹奐を擁立する。 |
262年 | 蜀帝劉禅は宦官の黄皓を重用して酒と女に溺れたため、蜀の国政は混乱する。黄皓は大将軍の姜維を追放し、代わりに閻宇を立てようと画策する。蜀滅亡の直前には、黄皓は劉禅に巫女の神託による政治を勧めて軍の派遣を阻んだり、江油城が落城したことを隠蔽したりと滅亡を招いた最大の原因となっている。 |
263年 | 政権が落ち着いたのを機に、魏の司馬昭、ケ艾を征西将軍に、鍾会(しょうかい)を副将に蜀討伐に乗り出す。 ◇剣閣の戦い(○鍾会vs姜維×)魏の大軍の侵攻を受け、ケ艾と鍾会の軍勢に敗れた姜維は、魏軍の成都侵攻を阻止するため天然の要害の地剣閣に立て篭もり鍾会の軍に抵抗するが成都陥落をきき張翼・廖化・董厥らを従えて降伏。 ◇成都陥落(○ケ艾vs諸葛瞻×)ケ艾、陰平から摩天嶺を超えて江油(こうゆ)に迂回して涪城に進入、綿竹で諸葛瞻(せん、諸葛亮長子)を討ち取る。侵攻した軍により蜀都・成都が陥落。蜀の劉禅が降伏して蜀滅亡する。 ケ艾、劉禅を扶風王(ふふうおう)に、配下の師纂(しさん)を益州刺史、牽弘(けんこう)、王頎(おうき)を太守に任じる。司馬昭これを独断専行とし謀反の疑いを持つ。 |
264年 | 鍾会の反乱 魏の鍾会、蜀の姜維と手を結んで魏に反逆しようと益州で反乱を起こすが失敗し、鍾会、姜維が殺害される。鍾会によって反逆者とされたケ艾が、鍾会の反乱騒ぎの混乱の中で綿竹で謀殺される。 魏の司馬昭、蜀平定の功により、晋王となる。 呉の孫休没して、孫皓が即位する。 |
265年 | 司馬昭が没し、司馬炎が曹奐に禅譲を行わせ、帝位につき魏滅亡する。晋の建国。 呉の孫晧、建業から武昌に遷都するが民衆はこれを嫌がる。 |
266年 | 呉の孫晧、再び建業に遷都する。孫晧、暴虐政治をはじめる。 |
272年 | ☆西陵の戦い(×羊祜vs陸抗○)呉の荊州の要めの地西陵で、呉の防衛を一人で支えていた陸抗(陸遜次男)と晋の羊祜(ようこ)の戦いがはじまる。 |
274年 | 陸抗没する。呉には柱となる人材がいなくなった。 |
276年 | 晋の羊祜、征南大将軍になり、呉の討伐を進言するが、多くの者がこれに反対する。 |
278年 | 羊祜、死に際して杜預を推挙。羊祜、死去。 |
279年 | 晋は賈充を総指揮に30万の大軍で、王渾を江西に、王戎を武昌に、胡奮を夏口に、杜預を江陵に向かわせ、王濬に長江を下らせ、呉に侵攻する。 |
280年 | ☆建業陥落(○王濬・杜預vs張悌×)王濬が建業に迫ると呉の孫皓、晋に降伏して呉滅亡。晋の統一なる。 |
283年 | 孫皓、没する。 |