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三国志

  1. 三国志の人物
  2. 群雄割拠 勢力図
  3. 三国志年表
第一部 群雄遂鹿 第二部 赤壁塵戦 第三部 三足鼎立 第四部 南征北戦 第五部 三分帰一
黄巾の乱→ 董卓の乱→群雄→呂布包囲→官渡→赤壁→三国鼎立→南征→五丈原→統一前
三国志、物語のあらすじ
時は二世紀後半の後漢末期、朝廷は皇帝の一族と宦官らに牛耳られ、政治は腐敗しきっていた…。各地では黄巾党による反乱が起き、後漢が滅亡の危機に瀕すると、各地の武将たちは一斉蜂起し、群雄割拠の時代へ突入した。世を憂いた劉備・関羽・張飛の3人は桃園にて義兄弟の誓いをたて、立ち上がる。やがて、覇権争いは、三国時代を迎え、それぞれが天下統一を目指すことに…。

三国志」の舞台と時代は、中国の後漢時代の霊帝の頃(黄巾の乱)からその滅亡まで(184〜220)と、三国時代(220〜280)です。日本でも、吉川英治の小説横山光輝のコミックなどで広く知られていて、今なお我々を魅了してやまない壮大な歴史物語です。吉川「三国志」はその中で、黄巾の乱から五丈原での諸葛孔明の死(234)までを中心に書かれています。

  1. 後漢末期のAD184年、宗教的色彩を帯びた農民一揆「黄巾の乱」が中国各地で発生。袁紹をはじめとする有力諸侯たちは、この黄巾の乱を鎮圧するとともに、朝廷を腐敗させている宦官らを滅ぼして功名を立てようと考えた。そして黄巾の乱と宦官討伐には成功したものの、そのスキに地方豪族の一人・董卓に朝廷を乗っ取られてしまう。今度はこの董卓を成敗するため、袁紹と幼なじみの曹操らが活躍。一旦、長安に遷都されていた都も、洛陽にもどされ、最後には曹操の本拠地である許昌に移された。そして曹操はついに朝廷(後漢王朝)での最高位、宰相の地位につく。
  2. 一方、漢朝の血筋をひくもののうだつの上がらなかった劉備も、関羽、張飛という盟友をえて功名をあげるチャンスを狙う。が、最初は力及ばず、曹操をはじめ各地の諸侯のもとへ身をよせ援助を受けることとなる。また長江周辺では、地方豪族の一人・孫堅が武勇をとどろかせていたが戦死。その後を長男・孫策、次男・孫権が継ぎ、長江下流域(江東)での基盤を着々と固めつつあった。
  3. 中央で最高権力を握った曹操は幼なじみで名門出身、当時河北地方に膨大な土地を有する袁紹と対決することになる(官渡の戦い)。この戦いで、兵の数が袁紹の十分の一に過ぎない曹操軍が奇跡的に勝利を収め、曹操の勢力は不動のものとなる。

  4. この頃、劉備にも転機が訪れた。隠れた龍と称される諸葛亮(孔明)を軍師として迎えることができたのである。劉備はこの孔明の言に従い、曹操と対抗するために江東の孫権と手を組み、協力して曹操の南下を防ごうとした(赤壁の戦い)。この戦いで、周瑜を総大将とする孫権軍は奇計を用いて曹操軍に打撃を与え、曹操の全国制覇の夢を打ち砕いた。が、この両軍が戦っている隙に、劉備は孔明の計画通り長江中流域にある荊州の地を我が物にする。このためその後、この荊州を巡って劉備は孫権と争うことになる。
  5. 劉備はその後、荊州に隣接した内陸部・益州(成都一帯)を同族の劉璋から奪い、曹操軍の侵入を防ぐため益州北部にある漢中も押さえようとした。そして劉備の勢力拡大に脅威を感じた曹操と当地を戦い、ついに漢中を手中におさめ、成都・漢中を含む蜀全体を統治することになる。
  6. しかし、かねてより荊州は自分の領土だと考えていた孫権がこれをねたみ、曹操と組んだ上で荊州守備に当たっていた関羽をだまし討ちにし、まんまと荊州を奪回してしまう。
  7. この頃、曹操は病を患い病死。後を継いだ息子の曹丕は、後漢皇帝である献帝に譲位を迫り、自ら魏王朝の皇帝となる。このことを知った劉備は孔明の勧めに従い、自ら後漢王朝を継ぐものとして(蜀)漢王朝の皇帝の位につく。と同時に、義兄弟である関羽を殺害した孫権に報復するべく遠征に出る(夷陵の戦い)。
  8. 夷陵の戦いでは、最初劉備側が圧倒的に優勢であったが、後に孫権の智謀に長けた参謀・陸遜が総大将となり、形勢は逆転。劉備は荊州と蜀の境界にある白帝城に逃げ込む。そしてそこに滞在中、病を患い、見舞いにきた孔明に息子・劉禅を託して亡くなる。

  9. 劉備に全権を委任された孔明は孫権との和睦に成功。その後劉禅を皇帝の位につけ、蜀の国の基盤を固めた上で、南方から蜀を脅かす異民族を懐柔。いよいよ天下統一に向けて魏討伐に乗り出した。しかし、もともと蜀は僻地の弱小国である上、初戦で部下・馬謖が失策したため痛手を受ける。そして魏の好敵手・司馬懿(仲達)と5回対戦するが、結局五度目、五丈原の陣中で病没する。
  10. これと前後して、孫権は呉王朝を開き帝位につく。こうして三国鼎立時代が始まる。
  11. 蜀では、孔明亡きあと若手武将・姜維が孔明の遺志を継いで魏と戦うが、劉禅をはじめとする蜀内部の腐敗は甚だしく、大した成果を収められない。逆に魏の優れた武将・ケ艾によって成都は落とされ、蜀の劉禅は魏に降伏する。
  12. このころ魏では司馬懿の孫にあたる司馬炎が、魏の第5代皇帝・曹奐に譲位を迫り、自ら晋王朝を開いて皇帝となる。
  13. 一方呉では孫権亡き後、息子の孫亮が後を継ぐが、親族の力が大きくなり、皇帝の廃立を謀るようになる。そのため皇帝が次々と変わり、第4代皇帝・孫皓の代になると、皇帝自身も宦官を寵愛するなど、朝廷内の腐敗も進む。そして司馬炎率いる晋軍と戦ったところ、あっさり敗れてしまう。こうして呉も晋に降伏し、AD280年、晋によって天下統一が果たされる。こうして魏、呉、蜀の三国鼎立時代は完全に幕を閉じるのである。
□物語:DVD三国志感想記 三国志演義簡訳 昭烈三国志(正史) 人形劇三国志 三国演義評 呆留虎的三国志(三国の流れ)
□年表:後漢三国時代年表 三国志年表  □武将:三国志武将列伝 三国志武将列伝  □合戦:三国志の戦い 三国志の合戦
□地図:三国志地図 年代別勢力図  □情報:三國志Online情報室 三度の飯より三国志 吉川三国志データベース
□その他:三国志-DVDBOX 三国志-中国ドラマ 三国志紀行

時の流れ(年)物語のあらすじ
◇黄巾の乱
  〜 呂布の最期(15)
黄巾の乱腐敗した王朝。荒廃した国土。人々は太平道に救いを求める。
虎牢関の戦い董卓の暴政に耐えかね、決起する群雄。しかしその前に呂布が立ちはだかる。
曹操の台頭董卓の死後、着々と力をつけていく曹操。乱世の奸雄が動き出す。
小覇王 孫策父の後を継がんと、瞬く間に勢力を拡大する孫策。人々は彼を小覇王と呼んだ。
呂布の最期圧倒的武力を持ちながら裏切りを繰返した呂布。その最期も部下の寝返りであった
◇官渡の戦い
  〜 長坂の戦い(8)
官渡の戦い河北を手にした袁紹。力をつけた曹操。いずれ激突するは必至であった。
孫策から孫権へ若くして逝った小覇王。攻める刃は没すとも、呉の護りを碧眼児に託す。
長坂の戦い迫りくる曹操の猛攻。退却を余儀なくされた劉備に、彼を慕う民も同行した。
◇赤壁の戦い
  〜 三国鼎立(7)
赤壁の戦い牙を向く曹操。野望を打ち砕くは精鋭の連合部隊。三国最大の戦いが幕を開ける。
三勢力の攻防退く曹操に攻め入る呉、その隙を劉備が虎視眈々と狙う。
三国鼎立曹操、孫権の大国に対し、ついに劉備が国土を得る。三国鼎立、ここに成る。
◇合肥の戦い
  〜 曹操の死去(5)
合肥の戦い中軍を守る孫権に魏の張遼が迫る。しかし呉にも甘寧がいた。
荊州争奪戦荊州を護るは関羽。防ぐ魏を尻目に、呉が隙を窺う。
曹操の死去関帝の死に動揺が走る。そして乱世の奸雄もまた、没する。
◇夷陵の戦い
  〜 南蛮夷の平定(3)
夷陵の戦い義弟の弔いか領土の回復か、この戦いが蜀の命運の分かれ道であった。
南蛮夷の平定英雄の死亡に三国は新たな局面を迎えた。諸葛亮はまず後顧の憂いを断つ。
◇蜀の北伐
  〜 伏龍天へ帰る(12)
蜀の北伐漢室復興の大義をもって蜀は動く。孔明は「出師の表」を上奏した。
伏龍天へ帰る仲達を相手に善戦する孔明であったが、稀代の奇才も天命には抗えなかった。
◇三国時代の終焉(46) 三国時代の終焉時は流れ、時代の荒波が押し寄せる。三国は終焉を迎える。

  七歩詩(『古詩源』:魏・曹植、「三国志演義」では上三句の代わりに煮豆燃豆萁以下の五言絶句が歌われている)

  煮豆持作羹  豆を煮て持って羹(あつもの)と作(な)し
  漉豉以爲汁  豉(し)を漉(こ)して以て汁と爲す
  萁在釜下燃  萁(まめがら)は釜下(ふか)に在りて燃え
  (煮豆燃豆萁  豆を煮るに豆萁(とうき)を燃やす)
  豆在釜中泣  豆は釜中(ふちゅう)に在りて泣く
  本是同根生  本是れ同根より生じたるに
  相煎何太急  相煎ること何ぞ太(はなは)だ急なる
  豆を煮て羹(あつもの)を作り、
  豆みそ(発酵させた豆)を漉して汁を作る、
  豆殻は釜の下で燃やされて豆を煮、
  (豆を煮るのに豆殻を燃やす、)
  豆は釜の中で茹でられて泣く。
  元々は豆も豆殻も兄弟同士なのに、
  どうしてそんなにひどく煎って苛めるのですか。

三国志の人物

君主軍師・文官武将
曹操(孟徳)
曹丕
曹叡
曹芳、曹髦
曹奐
荀ケ、郭嘉
荀攸
程c(ていいく)
賈詡(かく)
司馬懿(仲達)
夏侯惇、夏侯淵、曹仁(曹操従弟)、曹洪(そうこう、曹操従弟)、曹真(曹操甥)、曹爽(そうそう、曹真長子)、曹休
張遼、張郃(ちょうこう)、楽進、于禁、徐晃(魏の五将)
典韋、李典、許褚(きょちょ)、龐徳、郝昭(かくしょう)、諸葛誕
司馬師(司馬懿長子)、司馬昭(司馬懿息子、長子司馬炎は晋初代皇帝)
西晋司馬炎
司馬衷
賈充(かじゅう)ケ艾(とうがい)、鍾会(しょうかい)、羊祜(ようこ)、杜預(とよ)
陳寿(正史三国志の著者)
孫堅、孫策
孫権(仲謀)
孫亮、孫休
孫晧
張昭、張紘黄蓋、程普、韓当、祖茂(孫堅の四天王)
周瑜(公謹)、魯粛、呂蒙、陸遜(4人の大都督)
甘寧、太史慈(劉繇(りゅうよう)配下)、徐盛、呂範、凌統、周泰、朱然、朱桓
諸葛瑾(孔明兄)、諸葛格(諸葛瑾長子)、孫綝(そんちん)、陸抗(陸遜次男)
劉備(玄徳)
劉禅
孫乾、徐庶
諸葛亮(孔明)
龐統、法正
楊儀、黄皓
関羽(雲長)、張飛(翼徳)、趙雲(子龍)、黄忠、馬超(五虎大将軍)
劉封(劉備養子)、魏延、馬良、馬謖(馬良の弟)、李厳、孟達、王平
馬岱(ばたい、馬超従兄弟)、李豊(李厳の子)、姜維(きょうい)
蒋琬(しょうえん)、董允(とういん)、費禕(ひい)(諸葛亮と共に蜀の四相)
群雄  張角、張宝、張梁(黄巾の乱指導者)、何進(何皇后の異母兄)、董卓、李儒(董卓軍師)、呂布、陳宮(呂布軍師)、馬騰(西涼の雄、馬超、馬休、馬鉄の父)
袁紹(河北四州(冀・青・幽・并州)、袁譚、袁煕、袁尚の父)、袁術(南陽太守、袁紹従兄弟)、顔良、文醜(袁紹武将)、審配・郭図、沮授・田豊、許攸(袁紹軍師)、紀霊(袁術武将)
公孫瓚(こうそんさん、北平太守)、陶謙(徐州太守)、劉表(荊州太守、劉g、劉jの父)、劉璋(りゅうしょう、劉焉(りゅうえん)の子、益州牧)、黄祖(劉表の部下、江夏太守)、張魯(五斗米道、漢中支配)
漢王室霊帝
少帝(劉弁)
献帝(劉協)
 何皇后(霊帝の妃、少帝(劉弁)の母)、董太后(霊帝の母、孫の献帝(劉協、王美人の子)を養育)、張譲、趙忠、封諝、蹇碩(十常侍:宦官)、王允(司徒)
その他  司馬徽(水鏡先生)、于吉(うきつ、道士・仙人)、華佗(かだ、伝説的な名医)

群雄割拠 勢力図

西暦184年 黄巾賊蜂起時西暦189年 董卓の乱時西暦194年 群雄割拠時西暦198年 呂布包囲時西暦200年 官渡の戦い時
西暦208年 赤壁の戦い時西暦217年 三国鼎立時西暦225年 南征時西暦234年 星落五丈原時西暦280年 三国統一直前

三国志年表 (◇:魏蜀、▽:蜀呉、☆:呉魏、△:曹袁)

西 暦三国志関連の出来事
◇黄巾の乱 〜 呂布の最期
168年霊帝、即位する。
184年黄巾の乱(○何進・皇甫嵩・朱儁vs張角・張梁・張宝×)張角 病死、張梁・張宝 戦死
劉備・関羽・張飛三義兄弟による桃園の誓い。
曹操、孫堅、劉備らが討伐軍に加わる。
185年宦官13人が列候となる。
涼州争乱(○張温・董卓・孫堅vs韓遂・辺章×)涼州にて董卓・孫堅が韓遂・辺章を討伐。討伐には成功したものの、孫堅と董卓との間に不和が生じる。
187年涼州争乱(○董卓vs韓遂・馬騰×)韓遂が再び反乱、馬騰もこれに加わる。抜本的な鎮圧にはいたらず、馬騰と韓遂は以後涼州で勢力を保つことになる。
幽州侵攻(○劉虞・公孫瓚vs張純×)張純、張挙と共に烏丸の丘力居(きゅうりききょ)を仲間に引き込み反乱。
区星の乱(○孫堅vs区星×)孫堅が長沙で反乱を起こした区星を討伐。荊州南方を平定。勢力拡大を図る。
188年益州騒乱(○劉焉vs黄巾賊×)劉焉、益州を平定する。
189年霊帝が崩御、少帝(劉弁)が即位。何進は宦官の蹇碩(けんせき)を誅殺、外戚の董重と董太后を殺害。
何進謀殺(○十常侍vs何進×)張譲ら十常侍は報復として何進を謀殺。
宦官誅殺(○袁紹vs十常侍×)袁紹・袁術・曹操らが十常侍をはじめとする宦官を一掃。
董卓の乱 董卓が圧倒的な軍事力を背景に入京、少帝を廃して献帝(劉協)を即位させ、自分は相国となる。
董卓、呂布を裏切らせ邪魔者の養父丁原を殺し、権力を掌握する。
袁紹、袁術、曹操らは都を離れる。曹操が陳留にて挙兵、董卓打倒の檄文を全国の諸侯へ送る。
190年関東州郡挙兵 袁紹を盟主として反董卓連合軍結成するが、利害の不一致から戦意に乏しく、一致団結とはいかず行動を起こせず。その中でも積極派の曹操と孫堅は単独で仕掛け、共に負けを期す。
水関の戦い(しすいかん)(×連合軍・孫堅vs華雄○)(○関羽vs華雄×)華雄 戦死 孫堅、軍勢を立て直し董卓軍の最前線である洛陽への入口水関に迫る。華雄、関羽により「酒も冷めぬうちに」討ち取られる
虎牢関の戦い(ころうかん)(○劉備・関羽・張飛vs呂布×)水関・虎牢関と敗れ危機を感じた董卓は、李儒に命じて少帝を殺害、献帝を洛陽から長安に移し遷都する。
これをきっかけに反董卓連合軍は崩壊し、諸侯たちはそれぞれの兵士を引き連れて根拠地へと引き返していく。
劉表が荊州に入る。
191年洛陽攻防戦(○孫堅vs董卓×)洛陽に一番乗りした孫堅「玉璽」入手。玉璽をもって反董卓連合から離れる。
袁紹、韓馥から冀州(きしゅう)を取り公孫瓚(こうそんさん)と対立。、曹操は東郡の太守となる。
二袁の争い(袁紹vs袁術)袁紹・劉表・曹操および袁術・公孫瓚・陶謙・孫堅がそれぞれ同盟する。
192年襄陽の戦い(×孫堅vs劉表・黄祖○)袁術の意を受けた孫堅、劉表を攻めるが黄祖に敗れ戦死。孫策が後を継ぐ
界橋の戦い(○袁紹vs公孫瓚×)皇帝の勅旨により両者は一時的に和解するも、両者の関係は修復不可能となる。
董卓誅殺 王允と娘の貂蝉(ちょうせん)による「美女連環の計」により董卓が呂布に誅殺される。
長安の動乱(○李傕・郭vs呂布×)呂布が董卓の部下李傕(りかく)・郭(かくし)に敗れ長安脱出。王允処刑される。
青州黄巾賊討伐(○曹操vs黄巾賊×)曹操が青州の黄巾賊を平定し、配下に加える。青州兵の誕生。
193年匡亭の戦い(きょうてい)(○曹操vs袁術×)曹操が袁術陣営の高唐の劉備、平原の単経、発于の陶謙らを打ち破るに至って、ついに袁術は一大軍事行動を起こす。曹操の本拠地、豫州陳留に攻め込むが、敗れた袁術は淮南に向かい、揚州刺史の陳温を殺して寿春を本拠とする。
徐州大虐殺(○曹操vs陶謙×)陶謙が徐州の牧となるが、陶謙配下の張闓に父曹嵩を殺された曹操は徐州大虐殺。
公孫瓚が幽州牧の劉虞と戦い、これを捕らえて殺す。
194年曹操が再び徐州を攻め、陶謙は劉備に救援を求める。
濮陽の戦い(ぼくよう)(×曹操vs張邈・呂布○)夏侯惇 失眼、徐州大虐殺に不信を抱いた陳宮の策で、張邈(ちょうばく)が呂布と結んで曹操の本拠地兗州(えんしゅう)濮陽で謀反を起こす。曹操兗州の大半を失う。呂布は兗州の牧となる。
陶謙が病死、劉備がその跡を継ぎ徐州の牧となる。
孫策、江東に帰り周瑜を幕下に加える。
江東攻略戦(○孫策vs劉繇×)孫策、袁術に玉璽を質入れし挙兵、揚州刺史劉繇(りゅうよう)を破り、孫一族の旧領地を奪回する。太史慈が孫策配下となる。
195年定陶の戦い(ていとう)(○曹操vs呂布×)曹操、荀ケの勧めもあり徐州よりまず先に兗州(えんしゅう)の攻略に力を注ぐことを決意。兗州の交通の要である定陶に攻め込み兗州の覇権を奪回、兗州の牧になる。呂布・陳宮は劉備を頼り落ち延びる。劉備、各国から狙われる徐州を守るため、小沛を呂布にあたえ各国に睨みを利かせる。
鮑丘の戦い(○袁紹vs公孫瓚×)袁紹が「反公孫瓚勢力」を結集して、公孫瓚に大勝する。
196年淮陰の戦い(わいいん)(×劉備vs袁術・呂布○)陶謙の死を知った袁術が徐州を奪うため劉備軍に攻撃をしかけ大勝する。呂布が叛旗を翻し、守将の張飛を追い出し下邳城を奪う。劉備は一時呂布の配下となり小沛を譲られる。
曹操は荀ケの献策で献帝を洛陽に迎えて自らも上京して録尚書事となる。都を許に移し献帝も許に移す。
袁術が劉備を攻めるが、呂布の「轅門射戟(えんもんしゃげき)」の仲介によりお互い兵を退く。
下邳争奪戦(×劉備vs呂布○)下邳を取り返そうとした劉備、呂布に小沛から追い出され、曹操の下に身を寄せる。
孫策、呉郡太守(許貢)、会稽郡(王朗)、豫章郡(華歆)、丹陽郡(袁胤)を服従させ、呉の基礎を築く。
197年袁術、天子僭称し仲を建国するが、諸群雄の同意を得られず。この時に呂布と同盟をしており、諸侯が呂布討伐に苦慮していたため他国による攻撃は限定的なものであった。
宛攻防戦(×曹操vs張繍○)曹昂(曹操長男)・曹安民(そうあんみん、曹操甥)・典韋 戦死 張繍(張済の甥、宛城主)曹操に降伏し宛城(えんじょう)を明け渡す。曹操が張繍の叔父の張済の妻、鄒氏に手をつけたため、張繍軍が曹操陣を急襲、曹操軍は壊滅。
陳の戦い(○曹操vs袁術×)曹操・劉備・孫策・呂布、袁術を破る。李豊らを残して逃げ出した袁術の勢力は壊滅。
198年下邳落城(かひ)(○曹操・劉備vs呂布×)呂布・高順・陳宮 斬首
劉備は献帝に拝謁しで左将軍に任命される。
199年易京の戦い(○袁紹vs公孫瓚×)袁紹との戦いに度々負け、易京に追い込まれていた公孫瓚を攻める。袁紹は地下道を掘り易京を攻め、内部分裂を起こした公孫瓚軍は壊滅。公孫瓚は自害。
曹操達群雄の攻撃を受けた袁術は国を失い、袁紹の元へ逃亡途中に病死。
劉備、徐州で曹操に反旗を翻し下邳を取り、袁紹と結ぶ。
江夏・江陵の戦い(○孫策vs黄祖・陳登×)孫策が父の敵、江夏太守の黄祖を破る。
◇官渡の戦い 〜 長坂の戦い
200年
(建安5年)
董承の乱(○曹操vs董承×)皇帝より密詔をうけた董承(とうしょう)を首謀者に、劉備も名を連ねる曹操暗殺計画が事前に発覚、董承以下皆捕らえられ処刑。
小沛の戦い(○曹操vs劉備×)曹操、暗殺計画に名を連ねた劉備を小沛に攻める。意表を衝かれた劉備は妻子も兵も置き去りのまま袁紹を頼って冀州に逃げ、関羽、張飛ともバラバラになる。関羽は曹操に捕らえ客将となる。
白馬の戦い(×于禁vs顔良○)(○関羽vs顔良×)顔良 戦死、官渡の戦いの前哨戦。
延津の戦い(○曹操vs文醜×)文醜 戦死、官渡の戦いの前哨戦。
孫策は、曹操・袁紹対戦の隙を狙い、許都襲撃を計画するが刺客(許貢の部下)に殺され、孫権が後を継ぐ。
官渡の戦い(○曹操vs袁紹×)淳于瓊 戦死、曹操が袁紹の烏巣(うそう)の兵糧基地を焼く。劉曄(りゅうよう)発石車発案などで袁紹軍壊滅。
201年倉亭の戦い(そうてい)(○徐晃vs袁尚×)官渡で曹操に敗れた袁紹は一度帰るが、長子の袁譚、末子の袁尚が軍を率いて加勢に来たことで力を得、倉亭まで繰り出し再び曹操に戦いを挑むが、程c(ていいく)の「十面埋伏の計」に敗れ帰還する。
汝南討伐戦(×劉辟・劉備vs曹操○)劉備、曹操軍の不利を見て許都をつかんとした劉辟の援護に向かい、汝南を出て曹操の後方を脅かす。曹操は曹仁を派遣して応戦し、劉備・劉辟を破る。敗れた劉備は劉表の元へ身を寄せる。
202年袁紹が病死して、長子の袁譚と異母弟袁尚が争う。
黎陽の戦い(○曹操vs袁譚・袁尚×)曹操、黎陽に駐屯する袁譚・袁尚を破る
203年袁尚に敗れた袁譚が平原に立て篭もり曹操に降服する。曹操黎陽に着陣、袁尚は平原の包囲を解き鄴に帰還する。
204年鄴攻防戦(ぎょう)(○曹操vs袁尚・審配×)曹操が袁尚を倒し河北を平定し遷都する。袁尚中山へ逃亡。
袁譚、平原を放棄し南皮へ逃げる。曹操、平原入城。
205年南皮の戦い(○曹操vs袁譚・郭図×)袁譚、曹操に背くが敗死、曹操青州を平定する。
袁尚・袁煕は烏丸(うがん)に逃げる。
張燕が曹操に帰順。并州(へいしゅう)、幽州(ゆうしゅう)も帰順し河北を平定する。
206年壺関の戦い(○李典・楽進vs高幹×)并州で曹操に反旗を翻した袁紹の甥、高幹を討つ。
207年白狼山の戦い(○曹操vs袁尚・袁熙×)曹操、張遼を先鋒として出撃させ、烏丸・袁尚・袁熙と戦い勝利を収める。袁尚・袁熙は遼東へ逃亡。公孫康が逃げてきた袁尚・袁熙の首を曹操に送る。
郭嘉病死。
劉備、劉表のお家騒動に巻き込まれ蔡瑁(さいぼう)・蒯越(かいえつ)が謀殺を計るが、凶馬的盧で檀渓を跳ぶ。
劉備は徐庶を軍師に迎え、曹仁の「八門金鎖」の陣を撃破して樊城(はんじょう)を占領する。
魏の程cの計により、徐庶は諸葛亮を劉備に紹介して蜀を去る。
劉備、古隆中(こりゅうちゅう)に孔明を訪ね「三顧の礼」を尽くして諸葛亮(臥龍・伏龍)を軍師に迎える。
208年江夏の戦い(こうか)(○孫権vs黄祖×)黄祖 戦死
博望坡の戦い(×夏侯惇vs諸葛亮○)諸葛亮、デビュー戦。諸葛亮の火計にかかり夏侯惇、潰走・大敗。
劉表が病死して後継争いが起こり、曹操、南征して荊州に軍を進める。後を継いだ劉jが曹操に降伏。
諸葛亮、新野城焼いて逃げる。
長坂の戦い(ちょうはん)(○曹操vs劉備×)夏侯恩 戦死、超雲(単騎駆け)、張飛(長坂橋仁王立ち)らの活躍で江夏に落ち延びる。
◇赤壁の戦い 〜 三国鼎立
208年諸葛亮を派遣して孫権と同盟を組む。
孫権は張昭らの反対を退け、魯粛・周瑜らの意見で曹操との決戦を決断。
三江口の戦い(×蔡瑁・張允vs甘寧・韓当・蒋欽○)赤壁の戦いの前哨戦。赤壁よりも下流の三江口で呉の水軍、甘寧・韓当・蒋欽を率いた周瑜が、蔡瑁・張允を先鋒とした魏水軍を破る。
☆◇赤壁の戦い(×曹操vs孫権・劉備○)孔明の十万本の矢「草船借箭の計」、長江南岸南屏山の「七星檀」で東南の風を呼ぶ、呉の黄蓋の偽装投降「苦肉の計」、龐統の「連環の計」、周瑜の「火計」で曹操の大軍を退ける。
曹操に恩義のある関羽、華容道(かようどう)で曹操を見逃す。
曹操は江陵に曹仁・徐晃を、襄陽に楽進を、合肥に張遼を、残して許都に退却。
209年合肥城包囲戦(○張遼vs孫権×)太史慈、討死 孫権、援軍に駆けつけた魏の蒋済(しょうさい)の大軍救援偽情報の計略にはまり軍を引く。魏、呉の揚州侵攻を食い止める。
夷陵城攻防戦(×曹仁vs甘寧○)甘寧、簡単に城を攻め落とすが、逆に城を包囲され夷陵の城に閉じ込められる。
江陵城包囲戦(×曹仁vs周瑜○)周瑜は流れ矢を受け、一時指揮不可能に陥りながらも、気力を振り絞って江陵城を攻撃。ついに曹仁を退却させ、江陵を落とすのに成功。
南郡攻防戦 孔明、周瑜と曹仁が対戦している隙をつき、南郡(超雲)・荊州(張飛)・襄陽(関羽)の荊州要地三城を奪う。荊州での魏の勢力は大きく後退する。
荊州四郡制圧戦 南部四郡(零陵(劉度降伏×)・桂陽(○趙雲vs趙範×)・武陵(○張飛vs金旋×)・長沙(○関羽vs韓玄×))を得る。韓玄配下の黄忠、魏延が劉備配下になる。
劉備の急拡大に恐れを感じた孫権、妹孫尚香と劉備を政略結婚。
210年周瑜、柴桑(さいそう)にて憤死。
211年劉備、龐統(鳳雛(ほうすう))を得る。
関中征伐(×曹操vs馬超・韓遂○)曹操、漢中の張魯討伐のため出兵。馬超・韓遂が挙兵し長安を奪取する。
潼関の戦い(どうかん)(○曹操vs馬超・韓遂×)賈詡(かく)の「離間の計」で馬超・韓遂の仲を裂き曹操が勝利。関中(長安を中心とした関中平原。函谷関の西、隴関(ろうかん)より東の渭水盆地一帯)を平定。
曹操、馬超の挙兵の責任を問い、都にいた父の馬騰と一族二百人あまりを皆殺しにする。
劉備、張松より「西蜀地形図」を献じられ、劉璋は益州・涪城(ふじょう)に赴き、劉備の入蜀を出迎える。
212年孫尚香、帰国。
孫権、秣陵(まつりょう)を建業(今の南京)に改め本拠地に移す。
荀ケ、曹操の魏公就任に反対して自殺。
劉備と劉璋開戦 曹操が孫権を攻め、劉璋の要請で張魯討伐のため葭萌(かぼう)に駐屯していた劉備に、孫権から救援要請が来る。この援助要請を劉璋に出したが、これを劉璋が渋ったことから両者は決裂し、龐統の進言を聞き入れ、呉への援軍を口実に兵力移動の隠れ蓑にし劉璋に叛逆し、軍勢を引き返す。劉備軍は劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺し、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始める。
213年曹操が魏公となる。
冀城攻防戦(きじょう)(○楊阜・夏侯淵vs馬超×)馬超が雍州で反乱を起こすが、楊阜らに敗れて張魯を頼る。
涪水関攻防戦(ふすいかん)(○魏延・黄忠vs冷苞・ケ賢×)冷苞 生捕り、ケ賢 射殺 魏延は功を争って出陣したが黄忠に助けられる。
雒城攻防戦(らくじょう)(劉備vs劉循)劉備、劉璋の成都防衛の拠点・雒城(らくじょう)に軍を進めるが、劉循(劉璋の息子)の抵抗に遭い1年に亘って前進が停止する。張任の死により雒城は陥落。
214年緜竹関の戦い(めんちくかん)(○龐統vs張任×)龐統が落鳳坡で劉備と間違えられて射殺。この窮地に、荊州から諸葛亮(涪水(ふすい)を遡り大渡より涪城の後方に)・趙雲(南方の江陽から成都へ)・張飛(巴郡より葭萌方面へ)が駆けつける。
巴城攻防戦(○張飛vs厳顔×)太守・厳顔を生捕り、賓客として厚くもてなす。以後は劉備の家臣となる。
葭萌関の決闘(かぼうかん)(張飛vs馬超)馬超が張魯の命で劉璋の救援に向かうが、結局劉備に帰順配下となる。
金雁橋攻防戦(○劉備vs張任×)諸葛亮、計略により金雁橋に出撃した張任を捕らえる。張任 斬首。
成都攻略戦(○劉備vs劉璋×)劉備、諸葛亮・趙雲・張飛らの援軍を得て成都を陥落させ、劉璋から益州牧を奪う。
魯粛、劉備に荊州返還迫る。
吉本の乱(きつぽん)(○曹操vs伏一族×)伏皇后・伏完一族と太医令・吉本が、劉備の援助を期待して反乱するが、鎮圧され曹操に殺される。
215年陽平関の戦い(○曹操vs五斗米道・張魯×)劉備の蜀平定に危機感を抱いた曹操、漢中を平定する。
荊州領有問題 劉備、伊籍を派遣し荊州の一部返還を申し出るとともに、呉に合肥を攻めるよう持ちかけ和睦する。東部の江夏・長沙・桂陽の三郡は呉に、西部の南郡・武陵・零陵の三郡は蜀に。
◇合肥の戦い 〜 曹操の死去
215年皖城攻防戦(かんじょう)(×魏軍vs呂蒙・甘寧○)荊州三郡返還の和睦条件を履行するため、先鋒を呂蒙と甘寧に命じて、自らは周泰とともに中軍を務め、手始めに合肥の前線基地皖城を落とす。合肥の戦いの前哨戦。
合肥の戦い(がっぴ)(○張遼・李典・楽進vs孫権・凌統×)陳武 戦死 魏に攻め入った孫権率いる大軍勢が、張遼を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫す。凌統も曹操軍の勢いに圧され窮地に陥るが、父を殺した甘寧により命を救われ、以後は親交を深める。孫権は濡須口まで戻って軍勢を立て直す。
216年濡須口の戦い(×曹操vs孫権・甘寧・周泰○)張遼から援軍の要請を受けた曹操が漢中より駆けつけ、濡須まで軍を進めるが、孫権はこれを守り切る。孫権はこれ以上の戦いを避け曹操と和睦する。
三国の伝説的な名医である華佗、瀕死の周泰の傷を治療する。
許昌に戻った曹操は魏王となりさらに威勢を振るう。一方、曹操の矛先を交わした劉備は、虎視眈々と漢中を窺う。
218年韋晃の乱(○曹操vs韋晃×)曹操の専横政治に対し憤っていた韋晃、耿紀らが、献帝の権威を取り戻そうと、許昌で曹操への謀叛を起こすが鎮圧される。
楽進、死去。
巴西の戦い(×張郃vs張飛○)漢中を平定した曹操、張郃を南下させ巴西・巴東を陥落する。劉備、張飛に張郃への対処を命じ、張飛、張郃軍を壊滅し張郃は漢中の南鄭(なんてい)に退却。
漢中争奪戦(○曹洪・曹真・曹休vs呉蘭・雷銅・張飛・馬超×)呉蘭・雷銅 戦死 劉備漢中攻めとして、劉備は陽平関、張飛は固山、馬超・呉蘭は下弁と、大軍を持って攻略する。曹操も漢中を守る夏侯淵と張郃を支援すべく曹洪に5万の軍を与え下弁へ派遣する。曹洪の総攻撃を受けた呉蘭の軍は大敗し、下弁を守る馬超も大軍と勢いには敵わず敗走、張飛も孤立し退却を余儀なくされ、劉備がいる陽平関へ終結しここを守り切る。
219年定軍山の戦い(ていぐんざん)(×夏侯淵vs黄忠○)夏侯淵 戦死 劉備、法正の進言により黄忠に命じて張郃救援で半減した漢中守備軍の夏侯淵の本隊を攻撃し夏侯淵を討ち取り、漢中の本拠地南鄭を占領する。
漢中の戦い(×曹操vs劉備○)曹操親征。定軍山の戦いで惨敗した曹操は自ら大軍を率いて漢中奪回を図る。張郃は20万の大軍を率いて反撃に出るが、黄忠らと再び一進一退の攻防を繰り広げる。劉備軍は劉備・張飛・趙雲・黄忠・諸葛亮・法正といった主力の陣取り防御が固く、やがて戦いは持久戦となり両軍の対峙は半年以上に及ぶ。軍令での曹操の「鶏肋」の言葉を「撤退」と謎解きした楊修は、撤退の準備を開始し曹操軍はそのまま撤退する。
劉備は漢中王となり、益州全部と荊州の半分を領有し孫権以上の大勢力となる。劉禅を後継者に立て、諸葛亮を軍師に任命して国内外を統括させ、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超を五虎大将とする。
劉備の漢中王即位知って激怒した曹操は蜀征討軍の再出兵を命じるが司馬懿が制止。今は孫権と手を結んで共に劉備を攻めるべしと訴え、孫権との同盟に乗り出す。
魏諷の反乱(○曹丕vs魏諷×)魏諷(ぎふう)、劉備が漢中王に就くと関羽に通じ鄴で叛乱を企てるが曹丕により捕らえて処刑される。
樊城攻防戦(はんじょう)(×于禁・龐徳vs関羽○)于禁捕虜、龐徳斬首 関羽、陸遜の「呂蒙、大都督を退任」との偽情報にはまり、全力で樊城攻略に向かう。樊城を守る曹仁は守りを固める。魏の援軍として大将于禁、副将龐徳が駆けつけるが、雨水を貯めておいた堰を切って樊城を水攻めし于禁七軍を大破、襄陽を得る。関羽は腕に毒矢を受けて負傷するが、名医・華佗が骨を削って治療を施す。
荊州城攻防戦(×関羽軍vs呂蒙○)呉の呂蒙、軍船を商船に偽装し、荊州の奥深くに進入、手薄になっていた荊州城を落とす。これに呼応して魏の徐晃が樊城の救援に向かう。樊城を包囲している関羽軍は、魏軍と呉軍の挟み撃ちにあい敗走、荊州城を失った関羽は麦城に逃れる。
麦城の戦い(ばくじょう)(×関羽vs呂蒙・陸遜○)関羽・関平 斬首、周倉・王甫 自刃 関羽、僅かの兵、食料とともに麦城に籠り、上庸の劉封・孟達の援軍を待つが、魏と呉の共同作戦との戦いに敗れ、麦城脱出中に捕まり建業で斬首、荊州三郡(南郡・武陵・零陵)を失う。
呂蒙、病死。
220年曹操が洛陽にて没し曹丕が後を継ぐ。
曹丕、漢の献帝を廃して魏を建国し、洛陽に遷都する。
夏侯惇、死去。
関羽が呂蒙に追いつめられたとき、援軍を派遣しなかったことの処罰を恐れて、孟達が魏に降る。
221年劉備が漢(蜀)の皇統を継ぎ昭烈帝となり、蜀を建国。諸葛亮が丞相となる。
張飛、部下の范彊(はんきょう)・張達に閬中(ろうちゅう)にて暗殺される。
孫権、魏に臣従し呉王となる。
劉備は親征軍を発し、蜀と呉の戦いの幕が開けた。劉備、関羽の弔い合戦で呉攻めを強行。
于禁、憤死。
◇夷陵の戦い 〜 南蛮夷の平定
222年夷陵の戦い(いりょう)(×劉備vs陸遜○)黄忠・馬良、甘寧・潘璋 戦死 劉備、呉班・馮習らを先鋒として、李異・劉阿・陸遜らが防御していた巫城(ふじょう)と秭帰城(しきじょう)を続けて急襲し短期間に秭帰県までを制圧する。陸遜の本隊は三峡内の全拠点を失うが、陸遜の火計によって蜀軍後方の陣営を次々と陥落させ、蜀軍は馬鞍山まで撤退、大敗・壊滅する。陸遜、追撃の手を緩めず魚腹浦(ぎょふくほ)まで兵を進めるが、孔明がもしもに備えて築いていた八陣の図(石を積み上げた石兵八陣の迷路の罠)に進軍出来ずに兵をひく。劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に帰る。
蜀漢は荊州を完全に失陥する。呉はこの大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色を明確にし、魏に対抗するようになる。
孫権、年号を黄武と定めて呉を建国する。
江陵の戦い(×曹真vs朱然○)魏の曹丕、呉への侵攻を開始し宛城に入りこれを本営とし、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らの軍を江陵に、曹仁の軍を濡須口に、曹休・張遼・臧覇の軍を洞口にそれぞれ派遣する。
223年濡須口の戦い(×曹仁vs朱桓○)朱桓は曹仁を破って濡須から撤退させる。
洞口の戦い(×曹休vs呂範・徐盛○)張遼 死去 曹休、徐盛の築いた偽城に驚いて撤退する。魏の曹丕、呉攻め失敗、魏軍は総退却する。この戦いで呉と魏の友好関係は切れ、呉は蜀との同盟関係を回復させる。
曹操の従弟、曹仁没する。
蜀は劉備が白帝城にて病死し、劉禅が即位する。
魏の五路の計 曹丕・司馬懿、五路よりの蜀攻め作戦失敗。
(1)鮮卑王軻比能(かひのう)に遼西の羌族を蜀の北に派遣、西平関を攻めさせる(西平関の守りは馬超に任せる)
(2)蜀の南の南蛮王、猛獲に益州・永昌・牂柯(そうか)・越巂(えつしゅん)の4郡を攻めさせる(魏延を派遣し擬兵の策で大軍に見せか撤退させる)
(3)呉の孫権に長江を上らせ涪城を奪らせる(孫権には陸遜がいる。蜀を攻めるという愚かなことは彼が許さない)
(4)蜀より寝返った孟達に上庸から漢中へ攻め込ませる(孟達はもとは蜀の者、彼と親交のある李厳に書状を送る)
(5)曹真に30万の大軍で陽平関を攻めさせる(趙雲がこれを防ぐ。陽平関は難攻不落100万の大軍でも落とせない)
225年益州の乱(○諸葛亮vs雍闓×)蜀の建寧太守雍闓(ようがい)が南王孟獲と結託して反乱を起こすが、趙雲、魏廷、王平らの活躍で永昌城を奪還する。諸葛亮はさらに軍を率い南蛮軍の鎮圧に向かう。
蜀の南征(○諸葛亮vs孟獲×)諸葛亮、北伐作戦(魏への遠征)を最終目標とし後顧の憂いを絶ち、その足場固めのために国境を越えて南王孟獲と決戦、孟獲の妻・祝融夫人との人質交換や孔明考案の火を吐く車による猛獣撃退などで、七度捕われ七度許された(七縱七禽)孟獲が帰順する。
馬超、死去。
◇蜀の北伐 〜 伏龍天へ帰る
226年魏は曹丕が没し、曹叡(明帝)が即位する。鍾繇(しょうよう、鍾会の父)を大傳(たいふ)、曹真を大将軍、曹休を大司馬、司馬懿を驃騎(ひょうき)大将軍に任じる。
227年蜀の諸葛亮、北伐に出発する前に、国に残す若い皇帝劉禅を心配し『出師の表』(すいしのひょう)を上す。
渭水攻防戦(○諸葛亮vs夏侯楙×)諸葛亮、趙雲をおとりに使い祁山(きざん)に侵攻、魏軍の総大将夏侯楙(かこうぼう)を退ける。夏侯楙は南安に逃れるが、安定(崔諒)、天水(馬遵)、南安(楊陵)の3城が帰順し渭水一帯を領有、長安を睨む。この時、天水太守馬遵配下の姜維が諸葛亮の策により蜀に降る。
228年失脚した司馬懿が復帰する。
孟達の謀反(○司馬懿vs孟達×)司馬懿、新城太守の孟達が諸葛亮と内応し、諸葛亮が長安を攻め、蜀討伐のため長安に親征した曹叡の留守をつき、孟達が洛陽を攻め落とす計略で魏に叛いた孟達を斬る。
徐晃、死去。
街亭の戦い(がいてい)(○張郃vs馬謖・王平×)北伐に出た諸葛亮は天水・安定・南安の三郡を取ったが、魏は司馬懿を繰り出して反撃をする。重要地点の街亭の守りを馬謖に任せるが、彼は命令を無視して山頂に陣を築き、魏軍に水を絶たれ大敗を喫する。諸葛亮は撤退を余儀なくされ関中攻略の拠点で蜀の兵糧庫でもあり、天水・安定・南安の三郡を支える命脈の西城県で司馬懿に包囲されるが「空城の計」で死地を脱し敗戦の責により馬謖を斬る。蜀軍は雍州から撤退、天水・安定・南安の三郡を失う。(第1次北伐)
石亭謀略戦(×曹休vs陸遜○)全jら呉軍は待ち伏せて挟み撃ちし、火計を用い曹休軍に襲い掛かり大勝する。
陳倉の戦い(ちんそう)(○郝昭(かくしょう)vs諸葛亮×)街亭の東南にある陳倉城奪取を北伐の要として魏延にこれを包囲させ、衝車、雲梯、櫓などの攻城兵器を用いた攻撃や地下を掘って進むも失敗し、食料が尽き陳倉攻撃を諦め撤退する。(第2次北伐)
229年呉の孫権が帝位につき、建業に遷都する。
武都・陰平の戦い(×郭淮・孫礼vs諸葛亮・陳式○)張苞 負傷(後に死亡)、郭淮(かくわい)・孫礼を破り、武都・陰平の両郡を平定。(第3次北伐)
趙雲、死去。
231年祁山の戦い(きざん)(×曹真・司馬懿vs諸葛亮○)張郃 戦死、魏延・陳式(ちんしょく)は箕谷(きこく、vs司馬懿)、馬岱・王平は斜谷(vs曹真)、諸葛亮は先鋒関興・廖化(りょうか)に、主力とともに祁山へ軍を進める。諸葛亮木牛を使って兵糧を運ぶ。長雨が続き食糧輸送が途絶えたことにより、蜀軍は撤退を余儀なくされる。陳式軍令違反で斬首。(第4次北伐)
曹操の甥の曹真、没する。
234年合肥新城包囲戦(○満寵vs孫権×)同盟国蜀の動きに呼応し孫権は自ら大軍を指揮して合肥の新城を攻撃したが、満寵(まんちょう)らが奮戦し曹叡が寿春到着を待たずに孫権は撤退する。
五丈原の戦い(ごじょうげん)(○司馬懿vs諸葛亮×)諸葛亮 病死。蜀軍と魏軍の対陣は100日余りに及び、8月に諸葛亮が病死し蜀軍は撤退する。蜀軍は諸葛亮の死を伏せ「死せる孔明、生ける仲達を走らす」(孔明の人形を先頭に攻撃を仕掛けたところ、それを見て仲達の兵士は逃げ出した)。蜀は北伐で疲弊した国力を回復するため、内政に専念する。(第5次北伐)
魏延の叛乱(○楊儀vs魏延×)蜀軍内で諸葛亮の後継を巡った内紛が起こり、魏延と楊儀が争い魏延が謀反。魏延は漢中に出奔したが、楊儀は馬岱に追跡させ魏延を斬る。
蜀の蒋琬(しょうえん)尚書令となり、諸葛亮の後継者となる。
◇三国時代の終焉
237年公孫淵、遼東の地で独立し帯方郡と楽浪郡を支配下におき燕王となる。
238年襄平包囲戦(○司馬懿vs公孫淵×)魏の司馬懿、遼東に遠征し反乱を起こした公孫淵を斬る。
卑弥呼が魏に使者を送り親魏倭王に封じられる。
239年魏の明帝(曹叡)、没し曹芳即位。曹爽(そうそう、曹真長子)が魏の実権を握る。
蜀の蒋琬(しょうえん)大司馬となる。
241年呉の諸葛瑾、没する。
樊城包囲戦(○司馬懿vs朱然×)呉の朱然、樊城を包囲するが、司馬懿軽騎兵を率いて急行しこれを迎撃する。
244年興勢山の戦い(×曹爽vs王平○)曹爽、蜀に出兵。王平は興勢山に出撃し迎え撃ち、費禕の援軍が到着するまでの時間を稼ぎ撃退に成功する。
呉の二宮事件(孫和vs孫覇)皇太子孫和と魯王孫覇の孫権後継者争い(二宮事件)が激化。
二宮事件に巻き込まれ、孫覇一派の讒言を受けた張休、孫権の命令により自殺。
陸遜は嫡子(孫和)と庶子(孫覇)の区別は明確にすべきとして孫和を擁護するも、孫覇派の讒言で憂死。
245年蜀の蒋琬、董允が死去。黄皓が蜀の政治に影響力を持ち始める。
246年魏の曹爽、政治を独占する。
蜀の姜維(きょうい)・費禕(ひい)が録尚書事となる。
249年正始の政変(○司馬懿vs曹爽×)魏の司馬懿がクーデターを起こし、実権を握り丞相となる。曹爽一族、処刑。夏侯覇、蜀に亡命。
250年二宮事件決着 呉の孫権、二宮事件に決着。皇太子孫和を追放、孫覇に自殺を命じ、孫亮(そんりょう、8歳)を皇太子に立てる。
251年魏の司馬懿が洛陽にて没し、長子の司馬師が録尚書事となる。
252年魏の司馬師、大将軍になる。
呉の孫権が建業にて病死。孫亮が即位し、諸葛格が実権を握る。
東興の戦い(×諸葛誕・胡遵vs諸葛恪○)孫権の死を契機に、魏は諸葛誕・胡遵(こじゅん)らを東興に、王昶(おうちょう)を南郡に、毋丘倹(かきゅうけん)を武昌に進軍させる。呉は諸葛恪自らが東興に出向き、魏軍を打ち破る。南郡・武昌に進軍した王昶・毋丘倹も陣地を焼き払って退却、呉の大勝利に終わる。
253年合肥新城の戦い(○張特vs諸葛格×)諸葛格、周囲の反対を押し切って合肥新城に攻撃を仕掛ける。司馬師は鎮東将軍の毋丘倹と揚州刺史の文欽を差し向け、高塁を築かせ敵の疲弊を待つ。諸葛恪は数ヶ月間城を力攻めにし、城壁の一部を破壊し落城寸前となるが、合肥新城の守将張特の投降策に嵌まり、かつ文欽に呉軍の退路を押さえられ、退却しようとしたが大敗を喫す。
諸葛恪暗殺(○孫峻vs諸葛恪×)呉の孫峻(孫堅の弟孫静の曾孫)、皇帝の孫亮と謀ってクーデターを起こし、諸葛恪を誅殺し実権を握る。
蜀の費禕、魏からの降将・郭循に殺害される。姜維は費禕の後を受け軍権を握る。
鉄籠山の戦い(×司馬昭vs姜維○)姜維、武都より進撃して南安に篭る陳泰を包囲する。司馬昭、姜維の北伐に対抗して出陣。鉄籠山で姜維に包囲されるが、郭淮・陳泰の活躍で救出される。
254年姜維、隴西へ出撃。魏の狄道県の李簡が帰順、魏の将徐質を破るなどの戦果を挙げ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を蜀に連行する。
司馬師暗殺計画 魏帝曹芳、張皇后の父・張緝や李豊らに勅命を下し、司馬師を排斥して夏侯玄を執政にしようと目論むが、事前に事が露見。司馬師、李豊を殺害、夏侯玄・張緝を誅殺、張皇后に死を賜わる。魏帝曹芳を廃し曹髦(そうぼう)をたてる。
255年淮南の乱(○司馬師vs毋丘倹・文欽×)魏で毋丘倹(かんきゅうけん)らが司馬師に対して淮南・寿春で挙兵するが、司馬師に鎮圧され、毋丘倹は殺され、揚州刺史・文欽は呉に亡命する。司馬師、凱旋する途中許昌にて死去する。弟の司馬昭が後を継ぐ。
狄道の戦い(×王経vs姜維○)蜀の姜維、夏侯覇らとともに狄道に進出し、洮西で魏を攻め雍州刺史王経に大勝する。王経は狄道城に逃げ、姜維は狄道城を包囲したが、魏の陳泰が救援を率いてきたので退却する。
256年段谷の戦い(だんこく)(○ケ艾vs姜維×)ケ艾に動きを読まれたために攻勢は失敗し、姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に打ち破られ大敗する。蜀は精鋭外征軍と優秀な部隊長の多くを失い、長安ひいては中原を奪回することは、ほぼ不可能に近い状態になる。軍が弱体化した蜀はこれ以降、防戦一方で国防にも事を欠くようになる。
呉で孫峻病死。従兄弟の孫綝(そんちん)が後を継ぎ呉の実権を掌握する。
257年呉の孫亮が親政する。
諸葛誕の叛乱(○司馬昭vs諸葛誕・文欽×)魏の諸葛誕、司馬昭の専横に対抗するとして十数万の兵を率いて淮南・寿春で挙兵する。司馬昭は鍾会・州泰・王基・陳騫ら26万の兵を率いて諸葛誕の討伐に赴き、王基・陳騫らに命じて寿春城を包囲する。援軍要請を受けた呉は文欽・全端・全懌・唐咨ら3万人の軍勢を諸葛誕の援軍に派遣し、文欽らは魏軍の包囲が完成する前に寿春城で諸葛誕と合流する。
諸葛誕が反乱を起こすと姜維は再び軍勢数万を率いて北伐を行う。このとき魏軍は大将軍司馬望が守備を固め、ケ艾が援軍を率いてきた。さらに次の年になって諸葛誕が敗れると蜀軍は戦わず撤退する。
258年寿春城が落城し、魏の司馬昭、諸葛誕を殺す。
孫綝暗殺計画 呉帝孫亮は、専横を極める孫綝の排除を図るが事前に露見、孫綝は孫亮を廃し孫休を呉帝にたてる。
孫綝暗殺 呉帝孫休、孫綝の専横に危機感を抱き、参内した際に丁奉、張布に捕えさせ斬殺する。孫綝兄弟をはじめとする一族も全員処刑される。
260年司馬昭暗殺計画 魏帝曹髦、司馬昭を殺害するためにクーデターを起こすが、賈充に阻まれ司馬昭に殺される。新帝に曹奐を擁立する。
262年蜀帝劉禅は宦官の黄皓を重用して酒と女に溺れたため、蜀の国政は混乱する。黄皓は大将軍の姜維を追放し、代わりに閻宇を立てようと画策する。蜀滅亡の直前には、黄皓は劉禅に巫女の神託による政治を勧めて軍の派遣を阻んだり、江油城が落城したことを隠蔽したりと滅亡を招いた最大の原因となっている。
263年政権が落ち着いたのを機に、魏の司馬昭、ケ艾を征西将軍に、鍾会(しょうかい)を副将に蜀討伐に乗り出す。
剣閣の戦い(○鍾会vs姜維×)魏の大軍の侵攻を受け、ケ艾と鍾会の軍勢に敗れた姜維は、魏軍の成都侵攻を阻止するため天然の要害の地剣閣に立て篭もり鍾会の軍に抵抗するが成都陥落をきき張翼・廖化・董厥らを従えて降伏。
成都陥落(○ケ艾vs諸葛瞻×)ケ艾、陰平から摩天嶺を超えて江油(こうゆ)に迂回して涪城に進入、綿竹で諸葛瞻(せん、諸葛亮長子)を討ち取る。侵攻した軍により蜀都・成都が陥落。蜀の劉禅が降伏して蜀滅亡する。
ケ艾、劉禅を扶風王(ふふうおう)に、配下の師纂(しさん)を益州刺史、牽弘(けんこう)、王頎(おうき)を太守に任じる。司馬昭これを独断専行とし謀反の疑いを持つ。
264年鍾会の反乱 魏の鍾会、蜀の姜維と手を結んで魏に反逆しようと益州で反乱を起こすが失敗し、鍾会、姜維が殺害される。鍾会によって反逆者とされたケ艾が、鍾会の反乱騒ぎの混乱の中で綿竹で謀殺される。
魏の司馬昭、蜀平定の功により、晋王となる。
呉の孫休没して、孫皓が即位する。
265年司馬昭が没し、司馬炎が曹奐に禅譲を行わせ、帝位につき魏滅亡する。晋の建国
呉の孫晧、建業から武昌に遷都するが民衆はこれを嫌がる。
266年呉の孫晧、再び建業に遷都する。孫晧、暴虐政治をはじめる。
272年西陵の戦い(×羊祜vs陸抗○)呉の荊州の要めの地西陵で、呉の防衛を一人で支えていた陸抗(陸遜次男)と晋の羊祜(ようこ)の戦いがはじまる。
274年陸抗没する。呉には柱となる人材がいなくなった。
276年晋の羊祜、征南大将軍になり、呉の討伐を進言するが、多くの者がこれに反対する。
278年羊祜、死に際して杜預を推挙。羊祜、死去。
279年晋は賈充を総指揮に30万の大軍で、王渾を江西に、王戎を武昌に、胡奮を夏口に、杜預を江陵に向かわせ、王濬に長江を下らせ、呉に侵攻する。
280年建業陥落(○王濬・杜預vs張悌×)王濬が建業に迫ると呉の孫皓、晋に降伏して呉滅亡晋の統一なる。
283年孫皓、没する。


第一部(群雄遂鹿)(2008.7.15〜8.6)
タイトルあらすじ(前:Gyao無料動画、後:ShowTime)
第1集
「桃園三結義」

劉備、関羽、張飛 桃園の誓い

高租劉邦が天下統一し、光武帝の中興を経て永きの太平を続けた漢王朝も後漢の霊帝の御代(西暦184年頃)には乱れきっていた。皇帝が近侍の宦官達に政治を任せきりにしたため、彼等の専横による腐敗政治がまかり通り、さらには地方官僚の圧政となって庶民を苦しめた…。

劉備、関羽、張飛「死ぬときは同年同月同日きっと一緒に!」
高祖劉邦が天下を統一し、隆盛を極めた漢王朝。しかし、後漢の章和2(88)年に10歳の和帝が即位してからは、宦官たちの政治干渉と権力闘争が続き、次第に朝廷の機能は麻痺していく。続く災害と悪政に人々の怒りは限界を超え、光和7(184)年に「黄巾の乱」が勃発、戦火はやがて中国全土を覆うように。そんなある日、幽州の市場で関羽と張飛の小競り合いを見た劉備玄徳は、ふたりの武力に驚きを隠せずにいた…。

第2集
「十常侍乱政」

漢朝廷大いに乱れる 十常侍、政を乱す

黄巾賊を平定したのも束の間、洛陽の都では朝廷の権力争いが乱政治に拍車をかけていた。病弱な霊帝の後継を巡って、十常侍(じゅうじょうじ)と何進大将軍の駆け引きが続いた。霊帝と十常侍の一部は董大后(皇帝の母)の寵愛する「太子協」を、何進は妹の何皇后の子「太子弁」を次の皇帝にと目論んでいた…。

董太后「私が殺せるのは豚ぐらいですわ」
黄巾賊を平定したものの、朝廷内では依然として権力争いが繰り広げられていた。そんな折、霊帝の病状が悪化したために後継者争いが勃発。董太后の孫である劉協と、何進の妹である何皇后の子・劉辯のふたりが候補となる。しかし、結局は何進の甥である劉辯が少帝として即位する。この機に乗じて宦官一掃を目論む何進は、曹操の進言を無視して、各地の武将に密使を送り、兵の上洛を依頼。密書を受け取った武将の中には、西涼20万の軍を統率する董卓の姿もあった…。

第3集
「董卓覇京師」

野獣 董卓の野望 董卓、権勢を振るう

宦官らの粛正が終わっても、董卓は洛陽の郊外に駐留し兵を引かない。この混乱に乗じて権力の頂点を狙おうというのであった。暗殺された何進将軍の部下達を抱き込み、都の城内はおろか、宮廷の中にまで足を踏み入れる董卓の傍若無人振りに心ある文官、武官らはこぞって眉をひそめるのだった…。

李粛「馬と天下と、どちらが大切ですか」
宦官らの粛清が終わったにもかかわらず、洛陽の郊外に留まり続ける董卓。何進亡き後、朝廷支配の機会が巡ってきたことを察知した董卓は、少帝を廃し、陳留王を皇帝に即位させようと画策する。宮中で開かれた酒宴の席で、董卓は自らの計画を武将らの前で披露。それを聞いて怒った丁原は、養子の呂布とともに席を中座することに。翌日、呂布との戦いで敗れた董卓は、呂布を寝返らせるための秘策を練ることに…。

第4集
「孟徳献刀」

曹操孟徳、治世の能臣、乱世の奸雄

董卓を嫌って冀州へ帰還した袁紹は、王允に董卓暗殺を依頼した。曹操は実行役を引き受け、王允の宝剣「七星剣」を携えて董卓の屋敷に赴いた。もう一歩のところで、失敗した曹操は都から逃亡した。中牟県(ちゅうぼうけん)で捕えられた曹操だったが、道尉の陳宮は曹操の志に感激して、董卓討伐のため共に曹操の故郷を目指すことになった…。

曹操「私が他人に背いても、他人が私に背くことは許されない」
渤海に帰っていた袁紹は、朝廷内で董卓の権力が強大になっていると聞き、王允に密書を送って董卓暗殺を促す。密書を読んだ王允は、自分の誕生日の酒宴を開くとの口実で文官たちを呼び集め、董卓暗殺を提案。曹操がそれに呼応し、自ら董卓暗殺の実行役に名乗りをあげる。後日、王允から譲り受けた刀を手に董卓の屋敷へ乗り込んだ曹操だったが、暗殺は未遂に終わってしまい、曹操は洛陽を脱出して逃亡することに…。

第5集
「三英戦呂布」

劉備、関羽、張飛の三兄弟、虎牢関で呂布と戦う

献帝の初平元年(西暦190年)曹操の呼びかけで集まった諸侯は袁紹を総大将に擁し、董卓討伐の血盟を結んだ。孫堅、鮑信、袁術らを先鋒に洛陽に向かった。迎え撃つ董卓は華雄を水関(しすいかん=虎牢関)に派兵した。功を焦った鮑忠が華雄に挑んで斬死したが、孫堅の軍が良く戦い水関を包囲した…。

関羽「その酒の冷めないうちに華雄の首を持って戻りましょう」
初平元(190)年の正月、曹操の呼びかけで集まった諸侯たちは、漢王室の再興を図るために血盟を結び、袁紹を盟主として董卓討伐に立ち上がる。その先鋒に選ばれた、孫堅、鮑信、袁術らは意気揚々と洛陽へと向かうが、知らせを聞いた董卓は、華雄を水関に派遣し、これを迎え撃とうとする。討伐軍の鮑忠は、自らの功を焦るばかりに、作戦に背いて斬死。孤軍奮闘する孫堅は、後方の袁術に食糧支援を要請するが…。

第6集
「連環計」

王允、連環の計を仕掛ける

董卓は洛陽を焼き払って、長安(西安)遷都した。都の廃墟(洛陽)に立った孫堅は古井戸の中から「伝国の玉爾」(秦の始皇帝が作らせたという、皇帝の証)を発見した。孫堅が「伝国の玉爾」を手に入れたことは部下の密告から袁紹らの耳に入るところとなった…。

王允「漢皇室の将来が貂蝉、そなたにあるのだ」
洛陽を焼き払って長安への遷都を決めた董卓。廃墟となった洛陽にやって来た孫堅は、古井戸の中から「伝国の玉璽」を発見する。始皇帝が作り、劉邦をはじめ漢王朝に代々伝わる皇帝の証だと知った孫堅は、他の諸侯に知られることを恐れ、討伐軍を離れて長沙に戻ることを決意する。しかし、部下の密告によって袁紹に知られた孫堅は、詰問されることになってしまい…。

第7集
「鳳儀亭」

呂布と貂蝉密会 董卓、鳳儀亭に死す

王允の仕掛けた「連環の計」に董卓と呂布はまんまとはまった。呂布は王允が貂蝉(ちょうせん)を董卓に差し出したことを激しくなじった。王允は、それは誤解で、呂布の養父にあたる董卓が正式に娶らせるために嫁入り支度をしているのだと、言葉巧みに騙した…。

貂蝉「あの山の頂の白い雪となって眠ります」
王允が仕掛けた「連環の計」にまんまとはまった董卓と呂布。貂蝉に夢中になった呂布は、董卓に貂蝉を差し出したとして王允を激しく非難するが、王允はこれも呂布と貂蝉の結婚のためと、言葉巧みに騙す。その言葉を信じた呂布は、喜び勇んで董卓の屋敷へと向かうが、そこで董卓の妾となった貂蝉の姿を見てショックを受け、董卓への憎しみを募らせるように。一方、呂布の不穏な動きを察知した董卓は…。

第8集
「三譲徐州」

曹操、復讐の徐州出兵 劉備三度、徐州を譲る

董卓討伐失敗の後、山東の地で再起を期す曹操は一族を呼び寄せようとした。その道中、徐州の牧陶謙が好意から部下の張闔(ちょうがい)を護衛に付けたのだが、張闔は曹操の一族を皆殺しにして略奪した。激怒した曹操は復讐の為に徐州総攻撃に出るのだった…。

董卓討伐に失敗した後、山東の地を拠点に再起を図っていた曹操。やがて曹操は、父をはじめとする一族を山東の地へ呼び寄せることに決める。山東に向かっていた一族が途中、徐州に立ち寄ると、その地を支配していた陶謙は、曹操に取り入るために部下の張闔を護衛に付ける。しかし、その張闔が略奪のために曹操の父と一族たちを皆殺しにしてしまう。これを知った曹操は激怒し、徐州に総攻撃を仕掛ける!

第9集
「孫策立業」

孫堅の子、孫策ついに挙兵

徐州を中心に曹操、呂布、劉備が争っていた頃、江東では孫堅の長子孫策が一門の復興を懸けて苦闘していた。父孫堅は董卓討伐軍解散の帰路「伝国の玉爾」を巡って荊州(けいしゅう)の劉表との間に怨恨を残し、その決着戦の最中不幸な死を遂げていた。若年の孫策は領土を失い父の部下を率いて南陽の袁術の軍に加わっていた…。

徐州の地で、曹操・劉備・呂布が争っていた頃、江東では孫堅の子・孫策が実力を養っていた。父であった孫堅の死後、領土を失った孫策は、袁術の下で父の部下たちを率いて戦っていたのだ。英傑たちと交わりながら、江東に賢人を集めて機を伺うが、度重なる戦功にもかかわらず若僧扱いする袁術に対して、次第に怒りがこみ上げるように。日々悔し涙に暮れていた彼は、程普や黄蓋の激励によって、孫一門の再興を図る決意をする!

第10集
「轅門射戟」

呂布、陣門に戟(げき)を射て仲裁す

江東の孫策に対し、都では曹操が「献帝」の後ろ楯として実権を握るや、許昌(許都)に遷都し、自らは大将軍武平候を名乗った。基盤を固めた曹操は徐州への復讐を再開し、謀略戦「二虎競食の計」(密書で劉備に職位を与えるかわりに呂布を討つように命じる)、「駆虎呑狼の計」(劉備が袁術を攻めているうちに、呂布に劉備の領地を攻めさせる)に出た…。

劉備「兄弟は手足の如く、妻子は衣服の如し」
献帝の後ろ盾として実権を握るようになった曹操。洛陽から許昌に遷都し、権力強化が一段落すると、自らは大将軍武平候を名乗り、劉備と呂布がいる徐州への復讐を再開する。「二虎競食の計」が失敗した曹操は、次なる「駆虎呑狼の計」を立てて南陽の袁術と劉備を争わせ、徐州の弱体化を画策する。まんまと曹操の作戦は成功し、劉備が出兵したという知らせを聞いた呂布が、狙い通り徐州へ侵攻。曹操は劉備が不在の徐州を乗っ取ろうとする…。

第11集
「宛城之戦」

曹操、宛城の戦勝に酔い典韋を失う

娘を袁術の息子に娶らせるつもりの呂布だったが、陳珪の忠告で中止した。呂布と劉備の間も張飛の馬泥棒事件があってこじれた。呂布と手を切って曹操と結ぶことを決意した劉備らは、屈辱に耐えて曹操の下に身を寄せた…。

曹操「汝に借りたきものがある、それは汝の首である。罪なきは承知だが、そちの首をもらわねば反乱が起きる」
自分の娘と袁術の息子の結婚話が持ち上がった呂布。この話に乗り気だった呂布は、婚姻の準備を進めようとするが、陳珪の忠告を受け入れて中止する。一方、張飛の馬泥棒事件以後、呂布との関係が険悪になってしまった劉備は、呂布と手を切って曹操と手を結ぶことを決意する。屈辱にまみれながらも曹操の下に身を寄せる劉備。劉備を恐れた曹操の側近たちは、曹操に対して劉備暗殺を進言するが…。

第12集
「白門楼 上」

曹操、ついに呂布を追い詰める

袁術討伐の半ばで許都に帰還した曹操は、張繍と劉喪の連合軍に手を焼くことになった。行軍の途中、刈り入れに忙しい農民の邪魔をしないよう命じた曹操だが、自分で違反してしまう。遵法の為自害しようとする曹操を郭嘉は故事を引いて救った…。

郭嘉「法は尊きに加えずと『春秋』にあります」
袁術討伐の途中、許都に帰還した曹操は張繍と劉表の連合軍に手を焼く羽目に。行軍の途中、刈り入れに忙しい農民たちの邪魔をしないようにと部下に命じた曹操だったが、自身がその命令を破ってしまう。法を守れなかった自分を悔いた曹操は、自害しようとするが、郭嘉らの説得によって思い止まる。一方、その頃河北では、強大な勢力を誇る袁紹が虎視眈々と天下取りの機会を伺っていた…。

第13集
「白門楼 下」

希代の猛将、呂布の最後

下邳城の呂布に曹操が投降を呼びかけた。呂布は迷うが、参謀の陳宮は場内から矢を射かけ。曹操を激怒させた。妻妾の言いなりのままに形勢を悪化させた呂布は、自らの非を認めたくないため酒に溺れて荒んでいったあげく、袁術に援軍を依頼する。しかし、袁術が受け入れるはずもなかった…。

曹操「野獣を縛るにきつすぎるということはあるまい」
居城を攻められ、曹操から投降を呼びかけられた呂布。投降するかどうか迷っていた呂布だったが、参謀の陳宮が城内から矢を放ち、曹操を激怒させてしまう。妻たちの言いなりのままに形勢を悪化させた呂布は、自らの非を認めたくないために酒に溺れてしまい、ついには袁術に援軍を依頼する。一方、長期に渡る膠着状態に終止符を打ちたい曹操は、郭嘉の進言を受けて城への水攻めを開始する…。

第14集
「煮酒論英雄」

曹操と劉備、英雄を語る

建安三年(西暦198年)、許都において、徐州平定の式典が皇帝の勅命にて行われた。劉備の出自を聞いた献帝は、家系図を読み上げさせて、劉備の血統を真実のものと認めた。献帝は劉備を「皇叔」と呼んで頼りにし、曹操の対抗馬たることを期待するのだった…。自らの血で曹操打倒の密詔をしたため、それを国舅の董承に下賜する

曹操「真に英雄と呼べるものは、余とそちのみであろう」
建安3(198)年、皇帝の勅命により、徐州平定の式典が許都で行われることに。劉備の評判を耳にした献帝は、自ら引見を希望。劉備が漢の末裔であることを知った献帝は、臣下に家系図を読みあげさせて劉備の血統を真実のものと認めた。その様子を知った程cは、劉備の勢力拡大を危惧するが、それならば曹操はなおさら劉備を身辺に置くべきであると判断する。そんな折、皇帝を招いての狩りが行われるが…。

第15集
「袁曹起兵」

袁紹、曹操ついに挙兵す

劉備は袁術を倒し徐州に留まった。袁術の持っていた「伝国の玉爾」は巡り巡って曹操の掌中に納まることになった。ついに劉備追討を決意した曹操は徐州の兵を使って罠を仕掛けるが、以前から劉備に敬意を抱く徐州の陳登が劉備に協力した。曹操の仕掛けた罠を逆利用して劉備と共に徐州城を押さえた…。

陳琳「曹操もとより善行なく、乱を好み災いを楽しむものなり」
劉備によって袁術が滅ぼされたことで、袁術の持っていた「伝国の玉璽」は巡り巡って曹操の掌中に納まることに。ついに劉備討伐を決意した曹操は、徐州の兵を使って罠を仕掛けるが、以前から劉備に敬意を抱く徐州の陳登が劉備に協力。曹操の目論見は失敗に終わり、劉備がその罠を逆手に徐州城を押さえることに成功する。やがて、劉備は曹操の巨大勢力に対抗すべく、河北の袁紹に援助を要請するが…。

第16集
「関羽三事」

関羽、投降の三つの条件

劉備は曹操の復讐を考慮して、劉岱(りゅうたい)、王忠のニ将を解放した。また、徐州城に孫乾を配し、自らは張飛と共に小沛に布陣して曹操迎撃の最前線に位置した。さらに徐州城の万一に備えて関羽に下ヒ城を守らせ妻子をこの地へ移した…。

張遼「関羽殿、あなたがここで討ち死にすれば、三つの罪となるでしょう」
曹操の復讐を警戒する劉備は、捕らえた劉岱と王忠を解放。また、徐州城に孫乾を配し、自らは張飛とともに小沛に向かい、曹操迎撃の最前線に立つことに。さらに、徐州城の万一に備える彼は、関羽に家族の警護を依頼する。その頃、許都では董承らが曹操毒殺を試みるもあえなく失敗。董承ら首謀者を一族諸共処刑した曹操は、皇帝に対しても強く迫り、ついに宮廷を封鎖してしまう!

第17集
「掛印封金」

関羽、赤兎に乗って青龍刀を振るう

関羽は劉備の家族を守って許都へ向かい、劉備は袁紹の下に、張飛は芒トウ山へと、三兄弟はちりぢりになった。劉備の家族を守るため夜通し門外で立っている関羽に曹操は感服して袍衣を贈った…。

関羽「赤兎馬なら千里の彼方の長兄の下へも駆けて行けます」
袁紹の下へと向かった劉備、芒陽山へと向かった張飛。さらに、関羽は劉備の家族を守って許都へと向かい、三兄弟は散り散りになってしまう。劉備の家族を守るために夜通し門外に立っている関羽の姿を見た曹操は、その心意気に感服し、袍衣を贈ることに。曹操の恩に恐縮しながらも劉備への忠誠を忘れない関羽。その姿にますます感銘を受けた曹操は、関羽に名馬・赤兎を与えるが…。

第18集
「千里走単騎」

関羽、劉備のもとへひた走る

関羽の置き手紙を読んで、せめて別れの挨拶をと曹操は追いかけた。曹操は関羽に綿袍を与え心から別れを惜しむのだった。関羽の武勇と忠義を知る者が多く、道中援助してくれる人々も少なくなかったが、阻止しようとする者もあった…。

関羽「我が行く手を阻む者達の末路を知っているか!」
劉備の下へと戻ることになった関羽の置き手紙を読んだ曹操。せめて別れの挨拶をと思った曹操は馬を走らせ、関羽の後を追うことに。関羽に錦袍を与え、心から別れを惜しむ曹操。一方、関羽には苦難の旅が待ち構えていたのだった。関羽の武勇を知る者が多く、協力的な者も現れたが、なかには阻止しようとする者も現れ、ようやく沂水関まで辿り着く。その地の守将から歓待をしたいとの申し出を受けた関羽だったが…。

第19集
「古城相会」

三兄弟と趙雲、古城の町で再会す

関羽は河北で孫乾と会い、劉備が袁紹の下を離れて汝南に向かったことを知らされた。関羽らは汝南に向かおうとするが、夏候惇が追撃してきた。夏候惇と関羽が激しく斬り合うところへ次々に曹操からの伝令が届く…。

劉備「顔良、文醜が鹿なら、関羽は虎です」
河北で孫乾と会い、劉備が袁紹の下を離れて汝南へと向かったことを知った関羽。すぐさま後を追おうとする関羽だったが、夏候惇の追撃に遭ってしまう。関羽と夏候惇が激しく斬り合っていると、関羽を無事通過させるようにとの曹操からの伝令が次々と届く。納得しない夏候惇は、それでも関羽を斬りつけようとするが、張遼が駆け付けたことでようやく戦いを止める。曹操への礼を張遼に託した関羽は再び汝南へと急ぐのだった…。

第20集
「孫策之死」

小覇王孫策、無念の最期

江東の孫策は破竹の勢いで勢力を拡大していた。孫策はその勢力を背景に「大司馬」(官軍の参謀総長)の官位を求めたが、曹操はこれを却下した。腹を立てる孫策、そこへ孫策を陥れる内容の密書を持った呉の太守許貢の密使が捕えられて来た…。

孫策「内向きのことは張昭に、外向きのことは周瑜と相談して決めよ」
江東を拠点に破竹の勢いで勢力を拡大していた孫策。孫策はその勢力を背景に「大司馬」の官位を求めるが、曹操は却下する。孫策が腹を立てていた頃、孫策を陥れる内容の密書を持った許貢の密使が捕まり、孫策の下へと連れられて来た。激怒した孫策は許貢を殺害。だが、このことで孫策に恨みを抱いた許貢の食客たちが復讐を計画。ある日、狩りに出た孫策は食客たちが放った毒矢を受けて負傷してしまい…。

第21集
「官渡之戦 上」

袁紹、曹操天下分け目の決戦始まる

建安五年(西暦200年)、袁紹は七十万余の兵力で曹操征討を開始、曹操軍は官渡でこれを迎え撃った。袁紹陣営の謀士沮授は十倍の兵力を利してじっくり攻めることを進言するが、袁紹は速戦を主張して聞き入れず沮授を禁固にした。兵糧不足の曹操軍には速戦は望むところであった…。

袁紹「この狂人の首枷を重くし、戦が終わるまで閉じ込めておけ!」
建安5(200)年、袁紹は70万以上の兵力で曹操討伐を開始。曹操軍は官渡でこれを迎え撃つことに。袁紹の臣下たちは10倍の兵力差を考えて持久戦に持ち込むことを進言するが、袁紹はこれを聞き入れず、短期決戦に持ち込もうとする。一方、兵糧不足に悩む曹操陣営にとって、短期決戦は望むところだった。圧倒的な兵力で序盤戦で優勢に立った袁紹。苦戦を強いられた曹操は一計を案じるが…。

第22集
「官渡之戦 下」

袁紹、鳥巣を焼かれ、官渡決戦に大敗す

許攸がもたらした陣営の情報は戦の帰趨を決めた。兵糧基地の鳥巣を叩くことは、速戦即決の妙手とばかり、曹操は自ら夜襲をかけた。酒を呑んでいた淳干瓊は、曹操の火攻めに抗う術もなく、鳥巣は焼け落ち袁紹軍の兵糧は灰と化した。袁紹は鳥巣への援軍派遣と同時に郭図の進言で曹操の本陣官渡を襲撃した…。

曹操「私とて袁紹の全盛時代は恐れていた。同じように思って内通した者がいるのも仕方あるまい」
袁紹陣営から兵糧基地に関する情報を入手した曹操。さっそく曹操は兵糧基地への攻撃準備を開始する。自ら夜襲をかけ、兵糧庫を火攻めにする曹操。袁紹陣営は抗う術もなく、兵糧庫は焼け落ち、袁紹軍の兵糧はすべて灰と化した。怒った袁紹は曹操の本陣襲撃を計画。しかし、その戦いでも苦戦を強いられ、流れは曹操へと一気に傾き始めていた…。

第23集
「大破袁紹」

曹操、中原に覇を唱える

官渡の戦で圧勝した曹操は袁紹を冀州に追い詰めたところで、取って返し汝南の劉備を攻めた。敗れた劉備は荊州へ落ちのびた。袁紹は冀州に戻ってからも敗戦の痛手と後継者の問題で混乱し、勢力回復に手間取った…。

曹操「郭嘉の死は、天がわしを滅ぼそうとしている証なのだ」
官渡の戦いで大勝し、袁紹を追い詰めた曹操。勢いに乗った曹操は、そのまま汝南の劉備を攻め立てることに。急襲に敗れた劉備は、荊州へと退却させられる。一方、冀州へと戻った袁紹は敗戦の痛手と後継者の問題で勢力回復に手間取る。やがて、袁紹を曹操が再び攻撃。序盤戦で惨敗した袁紹はショックで吐血して倒れてしまい、袁紹軍はさらなる苦戦を強いられることに…。


第二部(赤壁塵戦)(2008.8.7〜8.30)
タイトルあらすじ
第24集
「跳馬檀渓」

劉備、関羽、張飛、荊州に落ちのびる

河北を平定した曹操は冀州に銅雀台の建設を始めた。また、南征に備えて兵力を増強していた。一方汝南を追われた劉備らは荊州の劉表の下に居た。劉備らは江夏の叛乱を平定し、敵将の名馬を奪い取って、劉表に献上した。劉表は大変喜んだが、蒯越(かいえつ)にその馬は的盧(てきろ)という凶馬だと知らされた…。

河北を平定した曹操は、南征に備えて兵力増強を開始。一方、汝南を追われた劉備は、荊州の劉表の下に身を寄せていた。江夏の謀反を平定した劉備は、敵将から奪った名馬を劉表に献上。劉表は大いに喜ぶが、臣下からその馬は凶馬だと聞かされる。さらに劉備を嫌う夫人やその親族から進言された劉表は、やむなく劉備に馬を返し、劉備たちを荊州から離れた新野に駐屯させることに…。

第25集
「劉備求賢」

劉備、功業を望み賢士を求める

司馬徽は賢士を得ねば功業は果たせぬと劉備に忠告し、臥龍、鳳雛の名を告げた。詳しく聞きだそうとする劉備をはぐらかす司馬徽だった。探しに来た趙雲と共に新野に帰る途中に単福(徐庶)と名乗る男を拾う。彼の才能を買った劉備は、新野に攻め込んで来た曹操軍との緒戦の采配を任せた…。

司馬徽「臥龍、鳳雛のうちひとりでも得られたなら、天下は治まる」
「賢士を得ねば功業は果たせぬ」と、司馬徽から忠告された劉備。「臥龍、鳳雛」のふたりの名を告げられたものの、劉備が詳しく聞き出そうとすると、はぐらかされてしまう。趙雲とともに新野へ帰る途中、単福と名乗る男と出会った劉備は、彼の才能を買って曹操軍との緒戦の采配を託す。単福は見事な策で曹操軍を一蹴! さらに曹操軍の隙を突いて前線基地を奪うことに成功する。

第26集
「回馬荐諸葛」

劉備、徐庶を失い臥龍を訪ねる

劉備らが遠ざかる徐庶を見送り嘆息していると、徐庶が慌てて引き返して来た。隆中に鬼才がおり、彼が司馬徽の言う臥龍こと諸葛亮孔明だと劉備に伝えた。許都に着いた徐庶は程cの計略と悟った。徐母は自分のせいと号泣したのだった…。

徐庶「諸葛亮孔明を得られたなら、周の文王が太公望を得、漢の高祖が張良を得たようなものです」
母の知らせを聞き、劉備の下を離れて曹操陣営へと向かうことになった徐庶。嘆きながら見送る劉備に対し、彼は陸中に諸葛亮孔明という鬼才がおり、この諸葛亮こそが司馬徽の言う“臥龍”だと伝える。これを聞いた劉備は、関羽らとともに諸葛亮訪問の準備を開始。一方、許都についた徐庶は、すべては曹操陣営の計略だったと知らされ、徐庶の母は自分のせいで迷惑をかけたと号泣。程なくして、母は自害してしまう…。

第27集
「三顧茅廬」

三顧の礼に応じ、諸葛亮ついに矛盧を出る

茅廬で詩を詠むは弟の均で、諸葛亮は不在。ついに二度目の訪問も無駄足に終わった。年が明け春になり、劉備が茅廬を訪ねようとすると、関羽、張飛は不機嫌窮まりない。張飛はふん捕まえて来ると言い出す始末。劉備が諭して三度目の訪問に赴いた…。

諸葛亮「曹操に“天の時”を得させ、孫権に“地の利”を与え、あなたは“人の和”を以て天下三分の一を占めるべきでしょう」
諸葛亮を訪ねるために再び茅盧へと向かった劉備たち。詩を吟じる男性の声を聞いた彼らは、諸葛亮に会えると心を躍らせるが、詠んでいたのは弟の諸葛均だった。二度目の訪問も無駄足に終わったものの、劉備は再び諸葛亮を訪ねようと準備を始める。それを聞いた関羽と張飛は猛反対! 捕らえてやると息巻く張飛をなだめながら、三度茅盧を訪れるが、諸葛亮は睡眠中とのことで、またしても待たされることに…。

第28集
「火焼博望坡」

諸葛亮初陣、博望坡で夏候惇を火攻め

曹操南征の先鋒、夏候惇が十万の兵力で新野に迫った。諸葛亮は大軍襲来に迷う劉備を諭して全軍の指揮権を預かった。劉備が「水魚の交わり」と例えた諸葛亮との関係に批判的な関羽、張飛を厳しく律し、博望坡での火計を実行した。劉備軍を侮った夏候惇は易々と罠に掛かった…。

劉備「余が孔明を得たことは、魚が水を得たのと同じだ“水魚の交わり”」
曹操南征の先鋒役を買って出た夏候惇。彼は十万もの兵力を擁して新野へと迫る。その知らせを受けた諸葛亮は、大軍襲来に戸惑う劉備を諭して全軍の指揮権を預かることに。諸葛亮に対して批判的な関羽や張飛を律すると、博望坡での火計を実行する。劉備軍を侮っていた夏候惇はまんまと火計に引っ掛かって敗走! 次は曹操自身が攻め込んでくると予測した諸葛亮は、劉備に対してさらに警戒を強めるようにと進言する。

第29集
「携民渡江」

劉備、領民を携えての苦難の逃走

全軍を投入して一気に劉備軍を討つと言う曹操に、劉曄(りゅうよう)が諌言した。劉備に同行している領民に反感を買うのはまずいので、降伏を勧めてはというものだった。使者として徐庶が選ばれ、樊城を訪れた。徐庶は再会した劉備らにひそかに曹操の企みを伝えると、曹操の下へ帰った…。

劉備「古より、大業を成す者、必ず民と共にある」
全軍を投入して一気に劉備軍を討つと宣言する曹操! だが側近たちは、劉備とともに移動している領民の反感を買うのは好ましくないと進言し、劉備に降伏を勧める作戦を提案する。使者として選ばれた徐庶が劉備の下に向かい、曹操の要求を伝える。曹操の企みを知った諸葛亮は、別の土地へと移ることを提案する。その行軍は領民たちにとっては危険極まりないもので、陣営では領民を同行させるかが大きな問題となる。

第30集
「舌戦群儒」

趙雲、張飛の豪胆、諸葛亮の三寸不爛の舌

趙雲は公子を抱いて長坂橋まで駆け抜けた。襲いかかる敵将を薙ぎ倒し、人馬ともに返り血を浴びて真紅に染まっての奮戦であった。辿り着いた長坂橋には、張飛が待っていた。趙雲は後を任せて、劉備の下へ駆けつけて、糜夫人の自害を止め得なかったことを詫び、公子を甘夫人に渡した…。

劉備「おまえのせいで、かけがえのない大将ひとりを、死なすところだった」
劉備の妻子を救出するために、単身で敵陣営に乗り込んだ趙雲。やっとの思いで阿斗を救出すると、彼を抱き抱えながら必死の思いで、自陣営に戻ろうとする。襲いかかる敵将たちをなぎ倒し、返り血を浴びながらも、凄まじい勢いで駆け抜ける趙雲。やがて、劉備陣営に辿り着いた趙雲。夫人の自害を止められなかったことを詫びるが、劉備は自分の息子のために趙雲を死なせるところだったと、逆に激しく悔いて…。

第31集
「智激周瑜」

諸葛亮、智を用いて名将周瑜を激し、同盟を結ぶ

諸葛亮は孫権に共闘を説く機会を得た。その会見に先立って、魯粛は諸葛亮に曹操の軍事力を低めに話してくれと頼んだ。孫権が曹操軍の勢力を知って消極策を選ぶことを恐れたのであった。しかし、諸葛亮は平気で正確な情勢を述べた…。

諸葛亮「大喬、小喬を贈れば、曹操は旗を巻いて引き揚げましょう」
孫権に対して共闘を申し込む機会を得た諸葛亮。その会見に先立って魯粛は、諸葛亮に対し、孫権が消極策を取らないように、曹操軍の兵力を低めに話すようにと提案する。しかし、これを聞いた諸葛亮は、孫権に対して現状をありのまま報告。劉備が曹操と戦うのは天意だが、孫権は負け戦をする必要がないと進言する。それを聞いた孫権は激怒! 曹操討伐への決意の炎を激しく燃やすように…。

第32集
「周瑜空設計」

諸葛亮、周瑜、火花散る智の攻防

孫権は最後の軍議で二分する論議の統一を図った。周瑜は曹操を逆臣と断じ、曹操の四つの弱点を説き大軍といえども恐れるに足らずと言い切った。孫権も徹底抗戦の決意を表明し、目前の机を叩き斬った。大議一決し、呉軍の総大将に任命された周瑜は、諸葛亮と会した…。

孫権「再び降伏を唱える者は、この机と同然だ!」
曹操の脅威が迫り、軍議で対応を決定することになった孫権。降伏か抗戦かで意見が真っ二つに分かれる中、周瑜が曹操を逆臣と断じ、その4つの弱点を解き明かす。それを聞いた孫権は、改めて曹操への抗戦の決意を固め、目の前の机を真っ二つに叩き斬ってしまう。呉軍の総大将に任命された周瑜は諸葛亮と会見。諸葛亮から曹操攻略についての忠告を受けるが、次第に諸葛亮の存在を疎ましく思うようになり…。

第33集
「群英会」

周瑜、宴を催し蒋幹を欺く

諸葛亮、劉備の謀殺がうまくいかず、浮かない気分の周瑜に魯粛がなぜ劉備を殺さなかったのか尋ねた。周瑜は関羽の存在の恐ろしさを挙げた。周瑜の心中で、諸葛亮のみならず劉備らの脅威が重いしこりとなっていった。そんな中、曹操軍の蔡瑁と甘寧が長江で戦った…。

周瑜「ここに集うは江東の英傑、この日の会を“群英の会”と呼ぼう」
諸葛亮と劉備の暗殺に失敗し、浮かない顔の周瑜。そんな周瑜に魯粛は、なぜ劉備を殺さなかったのかと尋ねたが、周瑜は関羽の存在の恐ろしさを理由に挙げる。その頃、呉の水軍が曹操陣営と長江で初戦を交えることに。少数精鋭ながらも機先を制し、意気上がる呉の水軍だったが、曹操陣営の水軍の充実ぶりを知った周瑜は持久戦に作戦を変更。曹操はこう着した状況を打開すべく、周瑜のもとへ彼の幼なじみの蒋幹を送り込む…。

第34集
「草船借箭」

諸葛亮、一夜にして十万余の矢を得る

曹操の水軍を戦わずして骨抜きにした周瑜だったが、気に掛かるのは諸葛亮の存在であった。魯粛に動向を探らせれば、自分の策はほとんど見抜かれている様子、何とかせねばと、一計を案じた。周瑜は諸葛亮を呼び、十日のうちに十万本の矢を調達してくれと、無理難題を押しつけたのだった…。

諸葛亮「私を謀殺せんとしても、我が命は周瑜ではなく天が決めること」
曹操の水軍を戦わずして骨抜きにした周瑜。だが心中では、依然として諸葛亮の存在が重くのしかかっていた。自分の策がすべて見抜かれていると感じた周瑜は、諸葛亮を呼び寄せ、無理難題を要求。10日以内に10万本の矢を調達するように要求する。この難題に対して諸葛亮は快諾。期間を3日に短縮し、出来なければ処刑されてもいいと宣言する。それを聞いた周瑜は大喜びするが…。

第35集
「苦肉計」

老将黄蓋、苦肉の計に身を投ず

周瑜と諸葛亮の繰り出す計略にはまり、混沌とする戦局に苛立つ曹操は苟攸の策を取り上げて、蔡瑁の従弟らを投降を装って密偵として呉軍に潜り込ませた。諸葛亮周瑜は曹操の策にすぐに気付いたが、逆利用を狙って投降を認め、甘寧の配下に組み入れた。そんな折、黄蓋が周瑜を訪ねた…。

黄蓋「人は百年生きても必ず滅するもの、覇業のためならこの身が砕けても惜しくはありませぬ」
周瑜と諸葛亮の計略にはまり、混沌としてきた戦局に苛立つ曹操。彼は数人の臣下を呉の陣営に潜入させる作戦に出る。投降を装ってやって来た密偵を見た周瑜らは、すぐに曹操の策に気づき、この密偵を逆に利用しようと考える。そんな折、老将・黄蓋が周瑜を訪問。火計は成功する可能性が低いと断じて、ある作戦を提案。その内容は、自らの身を投じて「苦肉の計」を実行しようというものだった…。

第36集
「龐統献連環」

鳳雛、曹操に連環計を説き、船を繋がせる

曹操の密偵、蔡中らからの書状が届いた。それには、孫権陣営の黄蓋に続き甘寧も曹操への恭順の意志を示しているとあった。疑念の残る曹操は真実を確認するために薪幹を偵察に送り込んだ。薪幹は先頃の汚名を雪ぐために自ら名乗り出たのだった…。

周瑜「この“連環計”を行えるのは、龐統の他にはいないだろう」
黄蓋の「苦肉の計」を見た密偵は、すぐさま曹操に連絡。黄蓋に続き甘寧までもが曹操への恭順を示していると聞き、疑念がぬぐえない曹操は、真偽を確認するために再び蒋幹を呉に送り込む…。一方、曹操の水軍をいかにして火計にするかについて、思い悩んでいた周瑜。敵の水軍の動きを止めるためには、何らかの計略が必要と考えた魯粛は、ある手段を用いて曹操を欺くことを進言する。

第37集
「横槊賦詩」

驕る曹操、月光の下に詩を吟ず

龐統から「連環計」を進言された曹操は江東制圧への自信を深めた。そして十一月十五日、全軍の諸将を自慢の大船に集めて決戦前の大宴会を催した。皎々たる月光の下、酒に酔いすっかり興に乗って大言壮語する曹操に、配下の幕僚達も顔をしかめるのだった…。

曹操「過ぎ去りし日々、苦しきことの多かりし」
「連環計」を進言され、江東制圧への自信を深めた曹操。全軍の将らを自慢の大船に集めると、曹操は決戦前の大宴会を催した。月光に照らされる中、酒にすっかり酔って大言壮語する曹操の姿に、顔をしかめる臣下たち。これまでの勝利の思い出に酔いしれ、自作の詩を披露した曹操は、その出来栄えについて臣下に批評を求めるが、不吉な文言が含まれていると諫言されて激怒! その臣下を突き殺してしまい…。

第38集
「諸葛祭風」

諸葛亮、真冬に東南の風を呼ぶ

建安十三年十一月、曹操との決戦の最中、周瑜は火攻めに必要な東風の風がないことを気に病み、血を吐き倒れた。「人には一旦夕の禍福あり」と嘆く周瑜に、「天には不測の風あり」と諸葛亮が語った。諸葛亮は周瑜に三日三晩東風の風を吹かせようと断言し、長江南岸の南屏山に「七星檀」を築くよう要請した…。

諸葛亮記す「欲啓曹公 宣用火攻 万事具備 只欠東風」
建安13年11月、曹操との決戦を控えた周瑜は、火攻めに必要な東南の風が吹かないことを嘆いていた。その姿を見た諸葛亮は周瑜に東南の風を吹かせてみせると断言。長江南岸の南屏山に「七星壇」を築くように要請した。半信半疑の周囲をよそに、祭壇でさまざまな祈祷術を駆使して、東南の風を吹かせようとする諸葛亮。それから数日後、ついに東南の風が勢いよく吹き抜けて…。

第39集
「火焼赤壁」

赤壁壊滅、関羽によって曹操を放す

周瑜らは曹操の密偵を血祭りにして、気勢を挙げて赤壁に向け出陣した。曹操の陣では黄蓋の投降をきっかけに総攻撃と、その時を今や遅しと待ちかねていた。そこへ、ついに黄蓋の舟が目印の旗を掲げて現れた。小躍りする曹操に、程cが様子がおかしいと注意を促す。気付いた曹操は陣内に入れないよう命じるが、すでに遅かった…。

関羽「命により、ここにて曹操殿をお待ちしておりました」
曹操の密偵を血祭りにして意気上がる周瑜らは、勢いのままに赤壁に向けて出陣! 一方、黄蓋の投降を合図に一斉攻撃を仕掛けようとしていた曹操は、その時をひたすら待ちわびていた。黄蓋の船が目印の旗を付けてやって来たのを見て、小躍りする曹操。だが、その船は周瑜らが送り込んだ焼き打ち船だった。大混乱の中、次々と要塞内に焼き打ち船が進入。曹操の船団は瞬く間に炎に包まれてしまう!

第40集
「智取南部」

諸葛亮、知略を駆使し荊州を奪取する

戦勝に沸く陣営に関羽が帰還した。ねぎらう諸葛亮に、関羽は死を以て詫びるために戻ったと告げた。曹操は華容道に現れたが、情義により逃がしたことを報告し、処刑を乞う関羽であった。全ての武将が諸葛亮に助命を乞うと、元よりこれを予測していた諸葛亮は関羽を許した…。

曹操「郭嘉さえ生きていれば、このような惨めな戦はせずに済んだものを」
戦勝に沸く劉備陣営に帰還した関羽。労をねぎらう諸葛亮に対して、関羽は曹操を取り逃がしたことを謝罪し、死を以て詫びると告げる。処刑を乞う関羽の姿を見た他の武将らは、関羽の助命を諸葛亮に懇願。もとより関羽の行動を予測していた諸葛亮も、今回は許すことに。その頃、曹操に勝利した孫権と劉備の間で、荊州の支配をめぐって激しい駆け引きが始まろうとしていた…。

第41集
「力奪四郡」

趙雲、張飛、関羽、四郡を攻略する

諸葛亮の智略で荊州の要地を手に入れた劉備らに対し、遅れを取った周瑜は魯粛を荊州に派遣して、劉備らに不満を訴えた。魯粛は荊州は江東のものだと主張したが、諸葛亮は荊州は元より劉gが引き継ぐ領土であり正当な形に戻っただけだと退けた…。

諸葛亮「黄忠は齢六十とはいえ万夫不当の剛の者」
諸葛亮の知略で荊州の用地を手に入れた劉備らに対し、遅れをとった周瑜は魯粛を荊州に派遣し、劉備に不満を訴える。荊州は孫権のものだと主張する魯粛だったが、諸葛亮もこの地は劉gが引き継ぐものだったとして譲らず、結局魯粛の主張は通らずじまいに。江東の孫権、中原の曹操に対抗しようとする劉備は、南方への勢力拡大を画策。荊州南部の四郡を怒涛の勢いで制圧する。

第42集
「美人計」

劉備、周瑜の計略で嫁取りに南徐へ招かれる

建安十四年、周瑜が紫桑で療養中、孫権は合肥で曹操軍の張遼に手痛く叩かれていた。相反して劉備らは南部四郡を制圧し順調に勢力を拡大していたが、そこへ襄陽の劉gが病死したとの知らせが届いた。孫権が荊州奪回に来るのは間違いなく、諸葛亮は策を練った…。

呂範「我が主公の妹御は気性が激しく、常に剣を帯び」
建安14年、周瑜が療養していた頃、孫権は合肥で曹操に激しく攻められていた。一方、劉備らは南部四郡を制圧し、順調に勢力を拡大していた。そんな劉備のもとに、劉gが病死したとの知らせが入る。孫権が荊州奪回に乗り出すと察知した諸葛亮は対応策を検討。劉gの弔問にやってきた魯粛が荊州返還を迫ると、巧みな話術でこれを説き伏せる。その知らせを聞いた周瑜は魯粛を罵倒。荊州のために劉備暗殺を狙うように…。

第43集
「甘露寺」

劉備、呉の甘露寺で孫夫人を娶る

事態の思わぬ展開に焦った孫権は、甘露寺での呉国太との会見の折に劉備を暗殺しようと謀った。劉備は孫権の策略に不安を感じつつも甘露寺に向かうのだった。甘露寺で初めて劉備に会った孫権はその風格に驚き、呉国太は一目で気に入ってしまった…。

劉備「荊州に戻り、王覇の道が成るならば、この岩を斬らせたまえ」
事態の思わぬ展開に焦った孫権は、甘露寺で呉国太との会見の際に劉備を暗殺しようと画策。一方の劉備も孫権の策略に対して不安を抱きつつも甘露寺へと向かう。甘露寺で初めて劉備を見た孫権はその風格に驚き、呉国太は劉備を一目で気に入ってしまう。その様子を見た劉備は、呉国太に自分の身の安全を図るように依頼。呉国太は受け入れ、孫権にそのことを命じたため、暗殺部隊は引き上げざるを得なくなり…。

第44集
「回荊州」

劉備の帰還、追う周瑜を諸葛亮が阻む

孫権は劉備に宮殿や庭園を与え巧妙に足止めを謀った。この策は成功し、劉備が南徐に来た年も暮れようとしていた。荊州では関羽、張飛らが心配して諸葛亮に相談すると、主公は年明けには帰ると断言した…。

孫権「もし従わねばこの剣で、妹と劉備の首を取って帰れ」
劉備に宮殿や庭園を与え、巧妙に足止めを謀る孫権。この作戦は成功し、劉備は年の暮れになっても南徐を離れられずにいた。そのころ荊州では、劉備の身を案じた関羽と張飛が劉備の帰還について諸葛亮に相談。諸葛亮は落ち着いた様子で、年明けには戻ってくると話すだけ。一方、劉備に同行していた趙雲は、諸葛亮からもらった袋を開封。そこには荊州に戻るための秘策が記されてあり、それを読んだ趙雲はさっそく実行に移すが…。

第45集
「三気周瑜」

周瑜憤悶し、諸葛亮が長河吟を弾く

建安十五年、美人計に失敗した周瑜は屈辱に古傷が裂け、紫桑で療養していた。雪辱を期す周瑜の下へ魯粛と張昭が来訪して、江南安泰のために許都の曹操に使者を送ると告げた。劉備を荊州の牧に推挙して、呉と荊州の関係が良好であることを示し、曹操の南征に予防線を張るというのだった…。

建安15年、美人計に失敗した周瑜は悔しさから古傷が痛むようになり、再び療養生活を強いられていた。雪辱を期す周瑜のもとを魯粛が訪問。江南安泰のために曹操に使者を送り、孫権と劉備の関係が良好であると伝えて予防線を張る作戦を伝える。その頃曹操は、銅雀台の落成を祝い、全軍を集めて弓の腕を競い合わせていた。終始ご満悦の曹操だったが、孫権の手紙で劉備が荊州を得たと知って青ざめて…。

第46集
「臥龍吊孝」

周瑜天に帰し、諸葛亮号泣して弔う

古傷をひどく悪化させて帰還した周瑜は自分の天命を悟り、妻小喬の手を借りて孫権への遺言をしたためた。後事を魯粛に託し、妻子と共に長江の岸辺を訪れて生涯の宿敵諸葛亮のことを語り聞かせた。それは諸葛亮に勝てなかった悔しさと共に彼への敬服の言葉だった…。

周瑜「天はこの周瑜を生み、なぜ孔明をも生んだのか」
古傷をひどく悪化させて帰還した周瑜。自らの天命を悟った周瑜は、妻の手を借りて孫権への遺言をしたためることに。すべてを魯粛に託した周瑜は、妻子とともに長江の岸辺を訪れ、宿敵である諸葛亮のことを語り聞かせ、そのまま36歳の生涯を閉じる。周瑜の死を知った諸葛亮は、敵とはいえども同じ乱世に志を抱いて生きた者として周瑜を讃え、ひどく悲しむ。やがて、諸葛亮は周瑜の弔問に呉へ向かうことを決意。心配する劉備をよそに出発するが…。

第47集
「割鬚棄袍」

涼州の豪勇馬超、曹操を驚かす

建安十五年冬、曹操は南征の前に後顧の憂いを断つべしと西涼の征西将軍騰を許都に呼び寄せ謀殺した。この知らせは息子の馬超と配下のホウ徳にもたらされた。馬超は父の友人で西涼の太守韓遂と共に曹操への復讐に打って出た。長安を奪取し怒涛の勢いで攻める馬超は潼関で曹操の軍に大勝した…。

建安15年の冬。曹操は南征の前に、征西将軍・馬騰を許都に呼び出して謀殺する。この知らせを聞いた息子の馬超は復讐を決意。怒濤の勢いで長安を奪取すると、曹操の軍にも大勝する。敗走する曹操だったが、なおも馬超らに追われ、長い顎髭を切り落とし、赤い鎧を脱ぎ捨てて、どうにか逃げ延びる。本陣に戻った曹操は持久戦へと作戦を変更。やがて、膠着状態となり…。


第三部(三足鼎立)(2008.8.31〜9.16)
タイトルあらすじ
第48集
「張松献図」

張松が蜀の地図を献じ、劉備が益州へ

建安十六年、曹操は馬超を破り、周辺の領主達を震撼させた。ことに、漢中の張魯は恐れるあまり、堅固な益州を奪って対曹操の拠点にしようとした。これを知った益州の劉璋は先手を打つために、許都の曹操に張魯討伐を懇願する使者を送った。使者の張松は横柄に振舞う曹操に対し、敢えて機嫌を損ねるような態度をとった…。

龐統「逆取するとも、その後順守すれば良いのです」
建安16年、曹操が馬超を破り、周辺の領主たちを震撼させた。中でも張魯は曹操の動きを恐れ、堅固な益州を奪って対峙しようと画策する。これを知った益州の劉璋は、先手を打つために、許都の曹操に張魯討伐を懇願することに。その使者に選ばれて許都で曹操と会見した張松は、横柄な態度を取る曹操に対し、あえて機嫌を損ねるような態度を取る。怒って会見を打ち切った曹操に対し、張松は仁義で国を治めるなら軍備は不要と言い放ち…。

第49集
「劉備入川」

劉備益州に入り、孫夫人呉に戻る

益州に向け進軍する劉備の軍勢は規律正しい行動で民心を掴んでいった。劉備を出迎えに向かう劉璋を、譜代の下臣達が命懸けで止めようとした。劉璋はこれらを退けて、劉備を出迎えた。龐統は歓迎の宴での劉璋謀殺を進言するが、劉備は退けた。双方の配下に不穏な空気が漂う中、宴が催された…。

劉備「超雲の動き、長坂坡にも劣らぬ」
益州に向けて進軍する劉備の軍勢。その規律正しい行動は、通過する土地の民心をつかんでいく。劉備を自ら出迎えようとする劉璋だったが、臣下たちが命がけでこれを阻止しようとする。それでも劉璋は臣下を退け、自ら率先して劉備を出迎える。一方、龐統は劉備に歓迎の宴の席で劉璋暗殺を進言するが、劉備は却下する。双方の臣下に不穏な空気の流れるなか、歓迎の宴が行われて…。

第50集
「鳳雛落坡」

成都に兵を向け、龐統は落鳳坡に散る

張魯との戦局は膠着状態に陥っていた。援軍を要請しても応えない劉璋に業を煮やした龐統は決断を促した。成都を襲って益州を奪取するか、あきらめて荊州に帰還するか、劉備は躊躇した。その間に成都では張松が殺害されていた。張松の劉備に益州奪取を要請した密書が発覚したのだった…。

龐統「この地は落雛坡、私の号は鳳雛、不吉な」
張魯との戦いが膠着状態に陥ってしまい戸惑う劉備。援軍を要請しても応えない劉璋に業を煮やした龐統は、劉備に決断を迫ろうとする。成都に出撃して益州を奪取するか、このまま荊州に引き上げるか、劉備は再び逡巡するように。その危機を察知した諸葛亮が、劉備へ慎重に事を運ぶようにと文書を送るが、諸葛亮への対抗心が強い龐統は成都攻撃を強行! その途上、落鳳坡で敵将の襲撃に遭い…。

第51集
「義釈厳顔」

猛将張飛、諸葛亮と益州入りを競う

張飛は諸葛亮の命を順守して進軍、厳しい軍律を敷いて、益州の領民に好印象を与えた。その前に立ちはだかったのが巴郡の老将巌顔だった。徹底抗戦する巌顔の篭城作戦に苛立つ張飛は、やけ酒を飲まんとして我に帰り、自らの酒乱の噂を利用して巌顔を油断させた…。

張飛「厳顔! 貴様を捕らえて皮をはぎ、肉を喰らってやるぞ」
張飛は劉備救出のために陸路で益州へ向かう。張飛は諸葛亮の命令を遵守して酒を断ち、軍隊には厳しい統率を行ったことで、益州の領民には好印象を与えていた。だが、老将・厳顔の軍が立ちはだかり、張飛は巴郡で足止めを余儀なくされてしまう。苛立つ張飛はやけ酒を飲もうとするも、ふと我に返り、酒乱の噂を利用して厳顔を油断させようとする。この作戦が成功して厳顔を生け捕りにした張飛。彼は厳顔に礼を尽くして投降を勧めるが…。

第52集
「奪占西川」

劉備、益州成都を制圧し本拠を得る

曹操に敗れて西涼の地を追われた馬超は仕方なく張魯の下に身を寄せていた。「錦馬超」と呼ばれたさっそうたる武者姿で劉備の前に現れた馬超を迎え撃つのは蛇矛をひっ提げた豪勇張飛。二人の激しい一騎討ちは日が暮れても雌雄を決することができず、松明がともされ夜半まで続いた…。

曹操に敗れて西涼の地を追われた馬超は、やむなく張魯のもとに身を寄せていた。劉備軍との戦いが始まり、馬超もその迎撃に向かうことに。そんな馬超の前に現れたのが、やはり武勇で名を馳せる張飛。ふたりの激しい一騎打ちは日が暮れても雌雄を決することができず、松明の灯る中、夜半まで繰り広げられた。翌日も早朝からぶつかり合うふたりを見て、馬超の武力に感嘆する劉備。馬超を帰順させる方法はないかと思案するが…。

第53集
「単刀赴会」

関羽、単身呉の宴に臨む

益州の主となった劉備は旧主劉璋を荊州の公安に封じ、諸官をも丁重に遇した。また、領民には城の穀倉を開いて振舞い、荊州から遠征の兵達には多くの報酬を与えた。このため益州の民心は安定し劉備の人望は高まった。しかしその頃、劉備が留守にしている荊州に暗雲が漂いつつあった…。

関羽「青龍偃月刀があれば、指一本触れさせはせぬ」
劉備が益州を支配したことで、諸葛亮が打ち立てた「天下三分の計」がついに実現。益州の主となった劉備は、劉璋を荊州の公安に封じるなど、着々と地盤固めに乗り出す。領民には城の倉を開いて穀物を分け与え、兵士には褒美を振る舞うなど、劉備の人望はさらに高まりを見せる。だがその頃、劉備が不在にしていた荊州を巡り、孫権らがその奪回に乗り出すことを企てていた…。

第54集
「合肥会戦」

孫権、合肥を攻めて張遼に大敗を喫す

孫権は荊州奪還を棚上げし、対曹操に力を注いだ。曹操は「魏公」を称し北方を統一して、天下統一の野望を燃やしていたのだ。漢中から曹操の勢力を一掃したい劉備は、孫権に荊州の一部を返還して対曹操の連合を組むことを提案した。使者の伊籍の説得に孫権も納得し、劉備の策に賛同した…。

孫権「曹操に猛将張遼あらば、我に甘寧あり」
北方統一を果たした曹操が天下統一に乗り出す。孫権は荊州奪還を一時棚上げにし、対曹操に力を注ぐように。そんな孫権の動きを知った劉備は、荊州の一部を孫権に返還。曹操打倒の連合軍結成を持ちかける。使者・伊籍の説得に納得した孫権は、劉備の策に賛同。孫権が5万の兵を率い、曹操南征の拠点であった合肥を先制攻撃する。漢中にいた曹操は合肥の張遼に手紙を送って叱咤激励。張遼は意を決して孫権を迎え撃つ…。

第55集
「立嗣之争」

曹丕と曹植、王位をめぐり骨肉の争い

老境に入った曹操は後継者に悩んでいた。三男の曹植は文才に秀で曹操のお気に入りだった。楊修は彼を担ぐことで権力を得ようとして、曹植の苦手な兵法について助力した。幕僚の賈クらは長幼の序を乱すことは後顧の憂いを招くと長兄の曹丕を後継者にすることを進言した…。

賈詡「袁紹と劉表が長幼の序を乱したことの結末をお忘れか」
魏王となって皇帝をしのぐ権力を手に入れ、頂点に立った曹操。だが、還暦を過ぎた曹操には後継者問題に悩んでいた。曹操が文才に秀でた三男の曹植を気に入っていることを知った楊修は、曹植を担ぐことで権力を得ようと画策。一方、賈詡らは長幼の序を乱すことは後顧の憂いを招くとして、長男の曹丕擁立を提案する。後継者争いが過熱する事態を恐れた曹操は、ふたりの息子に試験を課すことを決める…。

第56集
「定軍山」

劉備、定軍山の戦で曹操の軍を破る

劉備軍の張飛と馬超は漢中を狙って、夏候淵、張郃の軍勢と対峙していた。監軍役の曹洪が五万の兵を率いて合流した。加勢を得て反撃にでた張郃だったが張飛の計略に掛かり逃げ帰った。張飛は手勢五百を率いて険しい間道を通り張郃軍の裏に出て、正面から攻撃する魏延と呼応して張郃の軍勢を散々に蹴散らした…。

黄忠「齢のことは忘れて頂きたい、今でも三人張りの弓が引けます」
漢中を目指して進撃する劉備軍の張飛と馬超。だがその前に、曹操軍の夏侯淵と張郃が立ちはだかり、さらに曹洪が5万の兵を率いて現われた。数的不利に立たされた張飛らだったが、計略を用いて張郃を撃破。さらに厳顔と黄忠が追撃し、曹操軍を撤退させることに成功する。意気上がる劉備軍は、十万の兵を率いて中原に侵攻。曹操も自ら兵を率いて防御にまわり、ここに両軍の雌雄を決する定軍山の戦いが始まるのだった…。

第57集
「巧取漢中」

劉備、漢中を掌中に収める

曹操軍は定軍山の戦で惨敗し、夏候淵将軍を失った。落ち延びた張郃は南鄭に逃げ戻り、二十万の大軍で反撃に出た。敵の食糧を断つために黄忠が米倉山から糧秣を移送する張郃を襲った。しかし、大変な苦戦を強いられ、敵兵に包囲された。その時、後詰めの趙雲が突入し曹操の眼前で黄忠を救出した…。

楊修「鶏肋は味が良く捨てるには惜しいが、食べることもできぬ物です」
定軍山の戦いで惨敗し、夏侯淵将軍を失った曹操軍。なんとか南鄭に逃げ延びた張郃は、20万の大軍を率いて反撃に出る。劉備軍の黄忠らと再び一進一退の攻防を繰り広げる張郃。やがて戦いは膠着状態に陥り、曹操は漢水東岸に陣取って劉備軍と対峙する。そのことを知った諸葛亮は、三晩続けて曹操軍の周りで鳴り物を鳴らして夜襲を装う作戦を実行。すっかり疲弊した曹操軍は、退却を余儀なくされるが…。

第58集
「水淹七軍」

関羽、樊城水攻め、于禁七軍を大破

建安二十四年秋、劉備は諸葛亮らの強い勧めで漢中王の位に就いた。劉禅を世嗣に立て、諸葛亮を軍師に命じて国内外を統括させた。また、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超を五虎大将とした。劉備の漢中王即位知って激怒した曹操は蜀征討軍の再出兵を命じた。これを諌めたのが司馬懿だった…。

建安24年秋、諸葛亮らの強い勧めで漢中王の位に就いた劉備。劉禅を後継者に立てた劉備は、諸葛亮を軍師に任命して国内外を統括させ、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超の5人を五虎大将とした。劉備の漢中王即位を知って激怒した曹操は、劉備打倒のために出兵の準備を始めようとする。だが、そんな曹操の動きを臣下の司馬懿が制止。今は孫権と手を結んで共に劉備を攻めるべしと訴え、孫権との同盟に乗り出す…。

第59集
「走麦城」

忠義の英傑関羽、天に帰す

呉の呂蒙は荊州攻略に失敗した責任をとって大都督を退任した、との噂が荊州に流れた。手強い呂蒙が去ったことで、関羽は全力で樊城攻略に向かった。しかし、この噂は呉が関羽を油断させるために流した偽情報であった。夜陰に紛れて荊州に上陸した呉の兵達は、荊州兵を装って攻め込んだ…。

王甫「将軍に仕えて八年、私たちは充分に幸福でした」
荊州攻略に失敗した責任を取り、呉の呂蒙が大都督を退任したという噂が流れ、胸をなで下ろす関羽。しかし、この噂は関羽を油断させるために呉が流した偽情報だった。深夜、呉の兵士たちが荊州兵になりすまして攻め込むと、手薄になっていた荊州城はあっけなく落城。曹操からの援軍もやってきたことで、関羽は本拠地を脱出する羽目に。毒矢の傷が癒えぬまま、やむを得ず援軍を待ち続ける関羽だったが…。

第60集
「曹操之死」

乱世の奸雄、魏王曹操死す

伊籍と馬良が劉備の下へ駆けつけ、荊州落城を伝えて援軍を要請した。劉備らが急ぎ派兵の準備を命じているところへ廖化が傷だらけになって辿り着き、関羽が麦城へ落ち延びた後、劉封と孟達に裏切られ、麦城から逃走したものの呉軍に捕えられて家族共々孫権に処刑されたと報告した…。

曹操「天罰を受けるときには祈るところなし」
伊籍と馬良が劉備の下へ駆け付け、荊州落城を伝えて援軍を要請。それを聞いた劉備が派兵準備を行っていると、負傷した廖化が現れて関羽の最期を劉備に報告した。関羽の悲報を聞いた劉備は人目もはばからずに号泣。呉の孫権に対する復讐を心から誓うのだった。一方、劉備の報復を恐れる孫権は、曹操に協力を要請。手土産とばかりに関羽の首を曹操に送りつけるが、これを見た曹操がひどく怯えてしまい…。

第61集
「曹丕簒漢」

曹丕、帝位を奪い魏王朝を開く

曹操の死後、世嗣の曹丕は魏王、丞相、冀州牧すべてを世襲して魏の世情安定に腐心した。そこへ弟曹彰が十万の兵を率いて弔問に訪れた。曹丕は、王位に色気を見せる曹彰の兵を剥奪した。また、弔問に来ない曹植を捕えて七歩のうちに詩を詠むようにと難題を押しつけた…。

曹植「豆を煮るに豆がらを燃やし、豆は釜の中にありて泣く」
曹操の死後、魏のすべての実権を世襲した曹丕。そこに弟の曹彰が十万の兵を率いて弔問に訪れる。曹彰が王位をねらっていることを知った曹丕は、その十万の兵を剥奪。さらに弟の曹植を追放して着々と権力固めに乗り出し、ついには献帝に帝位の禅譲を迫るように。臣下らに取り囲まれて、無理やり詔書を書かされる献帝。帝位を奪った曹丕は国号や紀元を改め、その支配を確固たるものにする。

第62集
「興兵伐呉」

希代の豪勇張飛死し、劉備復讐に起つ

劉備は関羽の仇を討とうと遠征を決意した。諸葛亮は必死に諌めるが、張飛が一人でも行くと譲らず、劉備も聞く耳を持たなかった。章武元年七月、七十五万の大軍を率いて劉備が出陣。先鋒は黄忠、後詰めは趙雲が受け持っていた。一方この劉備の軍と合流する手筈の張飛は、自分の部下達に怒りにまかせて無理難題を命じていた…。

劉備「五虎大将のうち、三人にまで先立たれてしまった」
関羽の仇を討つべく、呉への遠征の準備を進める劉備。諸葛亮は必死に諌めるが、劉備は聞く耳を持たず、張飛もひとりでも行くと言い出す始末。やがて劉備は75万の大軍を率いて呉へ向けて出発。合流するはずの張飛だったが、怒りにまかせて自分の部下へ無理難題を申しつけ、失敗すると厳罰を与えていた。そんな張飛の態度に業を煮やした部下たちは、張飛の睡眠中に暗殺を画策し…。

第63集
「火焼連営」

陸遜の火攻め、劉備軍夷陵に敗れる

確実に迫ってくる蜀軍に江南の領民は恐れおののいた。窮地に立った孫権は、張飛を謀殺した二人を送りつけ和睦を申し入れた。しかし、そんなことで劉備が兵を引くはずがなかった。孫権は陸遜を抜擢して大都督に任じ、彼の才能に懸けた。呉の武将達が書生風情と馬鹿にする陸遜を、劉備も軽視して総攻撃をかけるのだった…。

闞沢(かんたく)「陸遜の雄略大才は、周瑜殿にも劣りません」
確実に迫ってくる蜀の軍勢に、江南の領民たちは恐れおののいていた。窮地に立った孫権は、張飛を殺害したふたりを送り付けて和睦を申し込むが、劉備は当然これを拒否。孫権は陸遜を大都督に抜擢して、陸遜の才能に賭けることに。呉の武将でさえも書生風情と嘲笑する陸遜に対し、当然のように侮る劉備。総攻撃をしかけたものの、陸遜陣営が意外にも持ちこたえ、事態は長期戦の様相を呈していった…。

第64集
「安居平五路」

情義と徳の人劉備、白帝城に死す

諸葛亮は、敗戦の衝撃から病の床に就いた劉備を訪ねた。劉備は自らの非を詫び、蜀の命運を諸葛亮に託した。また、子息、臣下を呼び寄せ、諸葛亮への忠誠を命じた。そして、趙雲にも子息の行く末を頼んだ。蜀漢の章武三年四月、情義の人劉備は享年六十三歳でこの世を去った…。

劉備「もし太子にその才なくば、丞相自ら成都の主となられよ」
敗戦の衝撃から病床に伏してしまった劉備。見舞いに訪れた諸葛亮に対し自らの非を詫びると、蜀の命運を諸葛亮に託し、さらに子息や臣下を呼び寄せ、諸葛亮への忠誠を命じた。章武3年4月、ついに劉備は63歳でこの世を去る。劉備死すとの知らせが各地へ伝わると、魏の司馬懿は、今こそ蜀を討つべきだとして周辺各国に協力を要請。これに各国も呼応し、蜀は窮地に陥ってしまう!


第四部(南征北戦)(2008.9.17〜9.29)
タイトルあらすじ
第65集
「兵渡濾水」

諸葛亮、濾水を渡り南王と戦う

建興三年、蜀の建寧太守雍闓(ようがい)は南王孟獲と結託して反乱を起こした。急報を受けた諸葛亮は自ら大軍を率いて南征に赴くのだった。政治を顧みず遊興に耽る後主劉禅の反対を説得しての出陣だった。趙雲、魏廷、王平らの活躍で順調に永昌城を奪還し、国境を越えて南王との決戦に向かった…。

馬謖「心を攻めること、これ上なり。城を攻めること、これ下なり」
建興3年、蜀の建寧太守が南王孟獲と結託して蜂起! 知らせを受けた諸葛亮は、政治を省みず遊興に耽る劉禅を説得し、自ら大軍を率いて南征に赴く。趙雲や魏延、王平らの活躍で永昌城を奪還すると、国境を越えて孟獲との戦いに向かうことに。孟獲は洞主たちを出撃させたものの、そのうちふたりが諸葛亮に捕らえられてしまう。彼らを手厚くもてなした諸葛亮は、不思議がる周囲をよそに彼らを解放するが…。

第66集
「絶路問津」

諸葛亮、死地を踏破し孟獲を捕らえる

南王の弟の孟優は投降を装って諸葛亮の陣へ入った。諸葛亮はそうと知りつつ孟優をもてなした。瀘水を超えて南王は夜襲をかけたが、待ち受ける趙雲らに包囲され、慌てて退却。瀘水に辿り着いたものの蜀軍の伏兵に捕らえられた…。

諸葛亮「今一度兵法書を読み、これ以上ないという策で挑むがいい」
孟獲の弟・孟優が投降を装って諸葛亮の陣営に潜入。諸葛亮は見抜きつつも孟優をもてなすことにする。策がうまくいったと思った孟獲は諸葛亮陣営に夜襲をかけるが、待ち受けていた趙雲らに包囲され、慌てて退却。だが、蜀軍の伏兵に捕らえられてしまう。またしても諸葛亮に釈放された孟獲は、趙雲や馬岱らの攻撃を退けながら逃走。帰り着いた砦も魏延に占拠されており、仕方なく本拠地の銀坑山にまで逃げ帰るが…。

第67集
「七檎孟獲」

七度捕われ、七度許された孟獲の帰順

五度、孟獲を放した諸葛亮は南王の最後の砦銀坑山へ兵を進めた。夫の危機に女傑祝融夫人が立ち上がり、奮迅の活躍で蜀軍の武将二人を捕らえた。諸葛亮は趙雲、魏廷に策を授けて祝融夫人を捕らえて、捕虜となった蜀の武将と交換した。南王は木鹿大王に援軍を請うた…。

諸葛亮「この地が再び戦火に包まれ、兵が傷つき、家族が嘆き悲しむのだぞ」
五度も孟獲を解放した諸葛亮は、南王の最後の砦である銀坑山へ兵を進める。南王の危機に祝融夫人が立ち上がり、奮迅の活躍で蜀のふたりの武将を捕らえるが、趙雲や魏延によって彼女も捕らえられてしまう。やがて孟獲は木鹿大王に援軍を要請。木鹿大王は猛獣を駆使して蜀軍を悩ませるが、諸葛亮は自ら考案した火を吹く戦車で撃退する。ついに銀坑山まで奪われた孟獲は、投降すると見せかけて最後の襲撃を企むが…。

第68集
「出師北伐」

諸葛亮、出師の表を上書し、北伐に向かう

魏の文帝曹丕が崩御、太子の曹叡が即位した。曹叡は曹真を大将軍、曹休を大司馬、司馬懿を驃騎将軍に任命して西涼の守備を固めた。諸葛亮にとって司馬懿の存在は悩みの種だった。魏の守備態勢が固まらぬうちに出兵をと考える諸葛亮に馬謖が離間の計を進言した…。

諸葛亮「いま天下は三分して益州疲弊せり。これ誠に危急存亡の秋なり」
魏の文帝曹丕が突如崩御し、太子の曹叡が即位。曹叡は曹真を大将軍、曹休を大司馬、司馬懿を驃騎将軍に任命して守備を固める、司馬懿の存在に頭を悩ませていた諸葛亮に対し、馬謖が離間の計を進言。まもなく司馬懿離反の噂が流れ、曹叡は司馬懿を解任する。司馬懿失脚の知らせを受けた諸葛亮は、今こそ北伐の絶好期だとして「出師の表」を奏上する。しかし、劉禅は政治を顧みずに遊興にふけっており…。

第69集
「収姜維」

諸葛亮、天水にて姜維を得る

安定の太守崔諒を帰順させた諸葛亮は、崔諒を南安の太守楊陵の説得に行かせた。しかし、崔諒は楊陵と謀って蜀軍を陥れようとした。すでに崔諒の企みを見抜いていた諸葛亮は、先手を打って南安城に忍ばせていた張苞、関興らに、これを陥落させた…。

諸葛亮「あの者こそ蜀を託せる有才とみた。姜維にすべてを伝えたい」
安定の太守である崔諒を帰順させた諸葛亮は、南安の太守・楊陵の説得に崔諒を向かわせる。だが、崔諒は楊陵とともに蜀を陥れようと画策。すでに崔諒の企みを見抜いていた諸葛亮は、南安城に忍ばせていた張苞らに命じて、城を陥落させる。安定、南安を支配下におさめた諸葛亮は、魏軍を装った使者を天水に送り、太守の姜維をおびき出そうと計画。しかし、姜維も計略を用いて諸葛亮を捕らえようとしていた…。

第70集
「司馬復出」

司馬懿仲達復権し、蜀軍迎撃に出陣す

困難な戦局に悩む曹真に、郭淮が夜襲を進言したが、失敗して大敗を喫した。失脚した司馬懿は、魏の苦戦を知り嘆息していた。蜀の脅威によって、ついに諸葛亮に対抗できる将は司馬懿のみと悟った曹叡は、自らの出陣と司馬懿の前線復帰を宣言した…。

諸葛亮「司馬懿は深謀に長け、当世の傑物。蜀の大きな禍の種となろう」
困難な戦局に悩む曹真。郭淮が夜襲を進言するも、失敗して大敗を喫してしまう。一方、失脚した司馬懿は魏の苦戦を知って嘆息していた。もはや諸葛亮に対抗できる武将は司馬懿しかいないと悟った曹叡は、自らの出陣と司馬懿の復帰を宣言。長安総攻撃を前に孟達が蜀に帰順し、司馬懿復権の知らせは諸葛亮の耳にも入ることに。諸葛亮は激しく青ざめ、孟達に対して司馬懿に注意せよと書簡を送るのだが…。

第71集
「空城退戦」

空城の計で死地を脱し、泣いて馬謖を斬る

亡き劉備の警告は的中した。実戦に疎い馬謖は諸葛亮の命令を遵守するより、自らが書物に学んだ兵法の知識を実践しようとした。街亭の街道に柵を設けて死守しようとする王平を無視して、見晴らしの良い丘陵地に陣を構えたのだ。諸葛亮の推察どおりに魏軍が街亭に現れた…。

諸葛亮「おまえは一族の命を引き換えにした。その街亭は今、誰の手にある」
亡き劉備の不安が的中し、実戦に疎い馬謖は諸葛亮の命令を遵守するより、自らが書物で学んだ兵法の知識を実践しようとしていた。街亭の街道に柵を設けて死守しようとする王平の提案を無視して、見晴らしの良い丘陵地に陣を構える馬謖。諸葛亮の推測通りに魏軍が街亭に現れたが、蜀の布陣を見た司馬懿は、諸葛亮の人事を不思議がる。魏の先方・張郃は、蜀軍を包囲して給水路を断つ作戦に出る。

第72集
「司馬取印」

諸葛亮、司馬懿、宿敵相対す

諸葛亮は再び出師の表の筆を取り、趙雲が自分に後事を頼む夢を見る。諸葛亮の上奏が通り、劉禅は北伐を許し三十万の兵を与えた。諸葛亮は街亭の東南に位置する陳倉の奪取を北伐の要として、魏廷を向かわせた。しかし、陳倉の守りは固く、蜀兵の屍が増えるばかりだった…。

司馬懿「わが軍が勝てば蜀軍は退かず、わが軍が敗れれば敵は必ず退く」
再び魏への出征を決意した諸葛亮の上奏が通り、劉禅は諸葛亮に30万の兵を与える。街亭の東南に位置する陳倉を北伐の第一歩に定めた諸葛亮は、魏延を派遣する。だが、陳倉の守りは固く多数の犠牲者を出す羽目に。この難局に対して、姜維が諸葛亮にある作戦を提言。それは、自ら魏軍に寝返ったふりをして、魏軍をおびき出し、その後一気にこれを叩くというものだったが…。

第73集
「祁山闘智」

諸葛亮、司馬懿、宿命の知謀戦

司馬懿は耐久戦に出て蜀軍を翻弄した。焦る魏廷は諸葛亮の戦略に不満を抱いた。そんな折、諸葛亮は身体の不調を感じた。決戦を急いだ諸葛亮は魏軍を誘い出すため撤退を装った。三十里ずつ陣を退く蜀軍。司馬懿は罠と見て静観していたが、張郃ら配下の武将の強硬な主張を受け入れて追撃のために張郃の軍を進軍させた…。

諸葛亮「晋の文公は三度退がって、驕った楚を破った。私はそれに倣ったまで」
持久戦に出た司馬懿が蜀軍を翻弄。焦る魏延は諸葛亮の戦略に対して不満を抱くように。そんな折、諸葛亮は自らの身体の不調を感じ、早期決着の作戦に打って出ることを決断する。魏軍を誘い出すために30里ずつ撤退を始めた蜀軍。司馬懿はこれを諸葛亮の罠だと見ていたが、張郃らの強硬な主張を受け入れやむなく進軍を開始。この機を待っていた諸葛亮は、魏延の出陣を期待するが…。

第74集
「諸葛妝神」

諸葛亮、鬼神を演じ司馬懿を惑わす

曹真は司馬懿に助けられ、その進言を入れて渭水まで撤退して対策を練った。同じ頃、蜀の陣では魏廷と陳式が箕谷の敗戦の責を問われていた。諸葛亮は魏の投降兵に曹真宛の書を持たせ、その文中で曹真を無学の徒と罵った。曹真は怒りのあまり憤死した…。

後主劉禅「いまは三国鼎立し魏も呉も攻めてはこぬ。相父も泰平を楽しまれよ」
司馬懿に助けられた曹真は、進言を聞き入れて兵を撤退。同じ頃蜀軍では、魏延と陳式が敗戦の責任を問われていた。諸葛亮は魏の投降兵に曹真への手紙を持たせ、その文中で曹真を無学の徒として罵倒。それを見た曹真は、怒りのあまり憤死してしまう。諸葛亮が奮戦していたその頃、蜀の成都では劉禅が遊興に耽り、諸葛亮からの兵糧補給の依頼にも真剣に対応しようとはせず…。

第75集
「六出祁山」

諸葛亮、最期の北伐、六度祁山へ

諸葛亮は劉備の廟で中原克復を誓い、魏廷、姜維を祁山に出撃させた。また、糧道確保のため李豊を斜谷に向かわせた。魏では、蜀の国力の低下を見通して、司馬懿を大都督に四十万の大軍で一気に蜀軍の殲滅を狙う戦略を固めていた。蜀軍と魏軍の兵力差はいかんともしがたく、蜀軍は各地で魏軍に敗北した…。

諸葛亮「中原克復まで鞠躬尽瘁、死すとも帰りませぬ」
劉備の廟で中原克復を誓った諸葛亮は、魏延や姜維を出撃させ、兵糧補給路確保のために李豊を斜谷へ向かわせる。一方、魏では蜀軍の兵力低下を予測し、司馬懿を大都督とし、40万の大軍で一気に蜀を攻め滅ぼす作戦を実行することに。蜀軍と魏軍の兵力の差は歴然としており、蜀軍は各地で敗北。諸葛亮はこのままでは魏軍に勝てないと判断し、呉の孫権に協力を要請するが…※鞠躬尽瘁(きくきゅうじんすい):心身を労して、国事につくすこと。「鞠躬尽瘁,死而后已」は『后出師表』からの引用

第76集
「火焼上方谷」

諸葛亮、司馬懿を火攻めにする

司馬懿を上方谷におびき出して火攻めにする、これが諸葛亮の策であった。慎重居士の司馬懿を嵌めるために周到な準備がなされた。馬岱が上方谷に火計の備えを敷き、併せて蜀軍が上方谷に重要な作戦拠点を築こうとしているかのような気配を演出した…。

諸葛亮「事を謀るは人にあり、事を為すは天にあり」
司馬懿を上方谷におびき出して火攻めにする、これが諸葛亮の秘策だった。慎重な司馬懿を陥れるために周到な準備がなされ、馬岱が上方谷であたかも重要な拠点を築こうとしているかのように演出した。さらに、蜀軍の輸送担当を意図的に魏軍に捕らえさせ、偽情報を吹き込むことにも成功。偽情報を信じた司馬懿は、蜀軍を壊滅させることを決意し、陣頭に立って上方谷へ攻め込むが…。

第77集
「秋風五丈原」

死せる孔明、生ける仲達を走らす

諸葛亮が病に倒れたとの報に成都の文官はうろたえるばかりだった。そんな蜀の現状に、今世を去るわけにはいかぬとの思いから、諸葛亮は北斗に祈祷して天象を変えて、自らの天命を延ばそうとするのだった。七夜の祈祷が後一歩で成就という時に、敵襲に慌てた魏廷の失態で、祈祷は失敗に終わった…。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
諸葛亮が病に倒れたとの知らせを受け、成都の文官たちはただうろたえるばかり。そんな蜀の現状を知り、まだ死ぬわけにはいかないと実感した諸葛亮は、北斗に祈祷して自らの天命を延ばそうと試みる。七夜の祈祷があと一歩で成就するというその時、敵襲に慌てた魏延の失態で祈祷は失敗に終わってしまう。死を覚悟した諸葛亮は、劉禅宛に遺書をしたため、姜維らに後世を託す…。


第五部(三分帰一)(2008.9.30〜10.6)
タイトルあらすじ
第78集
「詐病賺曹爽」

司馬氏、魏王朝の実権を握る

魏の景初三年正月、死の床にあった曹叡は曹真の子息曹爽を大将軍に任じ、朝政を委ねた。そして、臨終間際に司馬懿を呼び出して後事を託した。曹叡亡き後、曹芳が帝位に就き、大将軍の曹爽が実権を握った。司馬懿の存在が邪魔な曹爽は、司馬懿の失脚を狙った…。

司馬懿「人心を籠絡する者、天下を統一する。これぞ覇業の奥義」
魏の景初3年、死の床にあった曹叡は、曹真の子息であった曹爽を大将軍に任命。そして、死の間際に司馬懿を呼び出し、後事を託すと永遠の眠りについた。曹叡の死後、曹芳が帝位に就くと、曹爽が全権を掌握。司馬懿の存在が邪魔な曹爽は、司馬懿の失脚を企むようになる。身の危険を感じた司馬懿は、病であると偽って自宅に籠っていたが、曹一門が狩りに出かけたと聞きつけると兵を率いて城内へと向かう…。

第79集
「呉宮干戈」

孫権死し、呉王朝乱れる

呉の神鳳元年、中興の祖孫権が享年七十一歳で天に帰した。遺命を受けた諸葛恪は孫亮を帝位に就け、後ろ盾として実権を握った。孫権死すの報に魏の司馬師はすぐさま兵を起し呉征討に出た。呉の守将丁奉は、戦線の後退を主張する幕僚達を抑えて、徹底抗戦一歩も退かすとの覚悟で魏軍を迎撃した…。

諸葛恪「丁泰は重病ゆえ、直ちに江東へ送り返せ」
呉の神鳳元年、中興の祖・孫権が享年71歳でこの世を去る。遺命を受けた諸葛恪は孫亮に帝位を授け、その後ろ盾として実権を握るように。孫権逝去の知らせを受けた魏の司馬師はすぐさま兵を起こし、呉の征討に向かうことに。呉の守将であった丁奉は、戦線後退を主張する幕僚たちの意見を抑え、一歩も退かずとの思いで魏軍に対峙。厳寒の長江を裸で渡った丁奉に意気込みを感じた兵士らが奮起するが…。

第80集
「兵困鉄籠山」

姜維北伐、鉄籠山に司馬昭を追う

蜀の廷熙十六年秋、蜀の将軍姜維は恩師諸葛亮の遺命を果たすべく二十万の兵を率いて北伐を再開した。魏は、司馬昭を大都督に、徐質を先鋒に立てて蜀軍迎撃に出た。隴西での決戦で姜維の策の前に魏軍は大敗を喫し、徐質は戦死、司馬昭は鉄籠山に追い込まれた…。

姜維「鉄籠山に水源は一つしかない。司馬昭は程なく喉の渇きを訴えよう」
蜀の将軍・姜維は、恩師・諸葛亮の遺命を果たすべく、20万の兵を率いて北伐を再開。魏は、司馬昭を大都督に、徐質を先鋒に立てて蜀軍迎撃に出ることに。しかし、姜維の策の前に、緒戦は魏軍が大敗。徐質は戦死し、司馬昭は難攻不落の鉄籠山へ退却する。魏軍が水不足に陥ると予測した姜維は、持久戦に作戦を変更。やがて、姜維の読み通り、魏軍は極度の水不足で混乱に陥ってしまうが…。

第81集
「司馬昭弑君」

姜維、ケ艾、鐘会ら、名将激戦す

鉄籠山で惜敗を喫した姜維だったが、すぐさま体勢を立て直して祁山に兵を向かわせた。魏の大将軍となった司馬昭はケ艾に祁山の死守を命じ、自らは鐘会と共に渭水南岸に陣を敷いた。姜維は諸葛亮直伝の八卦の陣を駆使して祁山でケ艾の軍を翻弄した。蜀軍の強さに、正攻法では不利とみたケ艾は謀略戦に出た…。

ケ艾「姜維め、よくわしの過去を調べてくれた。ご苦労なことだ」
鉄籠山で惜敗を喫すも、直ちに体勢を立て直して祁山に兵を向かわせた姜維。一方、魏の大将軍となった司馬昭は、ケ艾に祁山の死守を命じ、自らは鐘会とともに渭水両岸に陣を敷く。諸葛亮直伝の「八卦の陣」を駆使した姜維の軍に翻弄されたケ艾は、その強さに正攻法では不利と判断。成都で酒色に耽る蜀帝の劉禅と姜維の間に離間の計を仕掛けようと画策。劉禅をそそのかし、姜維への不信感を募らせようとする…。

第82集
「九伐中原」

姜維、最期の北伐

蜀の景燿五年、姜維は九度目の北伐に出陣した。緒戦で魏軍の兵糧集積地を襲い、羌族と謀って持久戦に持ち込む策であった。しかし、蜀軍の策を看破したケ艾率いる魏軍との激戦で副将夏侯覇を失った。そこで、姜維は張翼に命じて手薄になった魏軍の本陣を攻撃させ、祁山奪回まで後一歩まで迫ったのだった…。

武侯諸葛亮のお告げ「漢室は滅びる。民を安んじよ」
蜀の景燿5年、姜維は9度目の北伐に出陣。緒戦で魏軍の兵糧基地を襲い、持久戦に持ち込む策を展開する。しかし、魏軍のケ艾に策を見破られた蜀軍は、戦闘で副将の夏侯覇を失ってしまう。そこで姜維は張翼に命じて手薄になった魏軍の本陣を攻撃させ、奪回まであと一歩に迫るのだった。だがその時、突然成都から帰還命令が届けられることに。蜀軍の将兵たちが涙ながらに撤退を拒むも、勅命には従うしか方法はなく、姜維はやむなく撤兵して成都に向かうが…。

第83集
「倫渡陰平」

将ケ艾、摩天嶺を越え、成都陥落

剣閣で行く手を阻む姜維の軍に苦戦を続ける魏軍の陣営では、ケ艾と鐘会の間に確執が起こった。元来野心家の鐘会と叩き上げのケ艾は対抗心も強く、互いに腹の探り合いを繰り広げていたのだった。そんな中でケ艾は陰平から摩天嶺を踏破して成都を奇襲する策を提案した…。

ケ艾「武候は鬼神の如し。あの方に師事出来なかった事が残念だ」
剣閣で行く手を阻む姜維の軍に苦戦を続ける魏軍。陣営内では、たたき上げのケ艾と野心家の鐘会の間に対立が生じていた。互いに腹の探り合いを繰り広げるようになったふたり。そんな中、ケ艾は陰平を経て成都を奇襲する策を提案する。鐘会は一笑に付すが、ケ艾は実行に移す。ケ艾は子息のケ忠を先鋒に昼夜を問わぬ決死の行軍を展開。断崖絶壁を乗り越え、多くの犠牲を出しながらも、成都を見下ろす摩天嶺の頂上まで辿り着く。

第84集
「三分帰晋」

魏、呉、蜀滅び、幾百の英傑は神となる

姜維は剣閣の砦で成都陥落の報に接し、廖化、張翼と共に諸葛亮の位牌に蜀滅亡の報告をするのだった。諸葛亮の遺志を守らんとする姜維は、漢室再興の秘策として、野心家の鐘会と共謀して成都奪回を狙うのだった。鐘会は姜維と義兄弟の契りを結び、剣閣の砦に入った…。

司馬昭「こんな主では、たとえ孔明が存命でも助けることは叶わぬだろう」
剣閣の砦で成都陥落の報に接した姜維は、張翼や廖化らと共に諸葛亮の位牌に蜀滅亡を報告。諸葛亮の遺志を守ろうとする姜維は、漢室再興の秘策として、野心家である魏の鐘会と共謀して成都奪回を計画する。姜維と義兄弟の契りを交わし、剣閣の砦に入った鐘会。しかし、鐘会の野望に気付いたケ艾は、蜀の戦後処理を急いで進め、呉への侵略を司馬昭に上奏。だが司馬昭は、逆にケ艾への警戒を強めてしまい…。