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最も代表的な【五大紋】と全国的に多い家紋
藤、木瓜(モッカ)、片喰(カタバミ)、鷹の羽、桐は家紋の中でも多く用いられ、五大紋という。次いで多いのが、蔦、柏、梅、桔梗、星である。
また、家紋はある特定の地域に多く分布することがある。代表的な地域を挙げると、下野(栃木)と巴紋、甲斐(山梨)と菱紋、美濃(岐阜)と桔梗、肥後(熊本)と鷹の羽などがある。


菊池・菊地一族の代表的家紋   菊池・菊地一族全国分布図
papa 菊池(菊地)氏は、武を尊び王事に尽くす名族だが、家紋に「太陽」を表す「日足」(八つ日足)紋と「武」を表す「鷹の羽」(違い鷹の羽)を用いる。6代肥後守隆直のとき(1180年頃)日足紋から鷹の羽紋に改める。もともと阿蘇神社が祖神だが、ここの神紋も「鷹の羽」である。

鷹の羽(並び鷹の羽)紋が初めて史上に姿を現すのは「蒙古襲来絵巻」。菊池次郎武房(10代)の旗に描かれている。「太平記」では菊池肥後守武重(13代)がこの紋を用いている。江戸時代の大名では、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野家の「違い鷹の羽」が知られる。

菊池・菊地一族の代表的家紋 (さらに詳しく見たい方はこちら

(出典:ひだか(家紋TOP100) 家紋百景(家紋画像)
家紋 全国順位 家紋 全国順位 家紋 全国順位
違い鷹の羽
チガイタカノハ
86位 丸に違い鷹の羽
マルニチガイタカノハ
1位 並び鷹の羽
ナラビタカノハ
−位
丸に並び鷹の羽
マルニナラビタカノハ
92位 丸に木瓜
マルニモッカ
2位 丸に剣片喰
マルニケンカタバミ
3位
下り藤
サガリフジ
4位 菊水
キクスイ
91位 菊菱
キクヒシ
−位


菊池・菊地姓の起こり(我が家に残る古文書より)
papa 菊池・菊地姓はあまたの姓と同じく、地名より起りしものにして、その起りは肥後国にありし菊池郡より起因せるものなるも、後世、菊池、菊地は混用せられ文献にもその記載に混用多くみゆるなり。しかして、その本流は菊池なるも菊地より分かれたるもの、池・地と誤記して後世菊地となりたるものにしてその祖は血脈を同じくせるものなり。
 菊池・菊地の地域分布を概観するに比較的に西国に「菊池」多く、「菊地」は奥州、信濃、志摩等に多く見ゆ。


 菊池の姓はもと肥後国菊池郡より起こりたるものなり。この地は『和名抄』に久々知と註されてあり。この地より起こりたる菊池氏ははじめ久々知、あるいは久々智と称したるものならん。

 古くは鞠智(くくち)とも記し奈良東大寺の『奴婢帖』の中、「天平勝宝元年大宅朝臣可是麻呂貢賤解」に「右京四條四坊戸主鞠智足人」云々と記載されたるを見ても菊池、あるいは鞠池姓の起源の古きことを知り得べし。

 なお、『続日本紀』の文武記二年五月甲申の條には「太宰府をして、大野・基緯・鞠智の三城を繕治せしむ」とありて、鞠智もまた此の地方の地名に由来するものであり、古くは鞠智、あるいは久々智と記せしことを知ることをうべし。

 されど『延喜式』にはすでに菊池と記されあるをみれば、奈良時代において鞠智に佳字を当てて菊池と改めたるものならん


 しかれども、菊池氏の起りには諸説ありて藤原姓菊池、源姓菊池、紀姓菊池などとも伝えられたり。これ等のうち最も確かなるは藤原姓菊池説にして『菊池武朝申状』『菊池系図』等によれば菊池氏の祖は藤原氏十二代の裔、中関白道隆より出でたるものと伝えり。

 いま、菊池姓を名乗るものは全国津々浦々にありて盛んなれど、概ねはここにいう筑紫国菊池郡より起こりたる菊池一族より分岐したるものにして、肥前の菊池氏をはじめ豊前、豊後、薩摩、讃岐、越中、伊豆、武蔵、常陸、下野、磐城、会津、陸中などの菊池氏はいずれもこの菊池より派生したるものなり。


菊池一族のルーツ
papa  そもそも菊池氏はその源を藤原氏より発するものにして、弘和四年(一三八四年)七月菊池武朝が累代の戦功を記して南朝に奉したる『菊池武朝申状』にも

「中関白道隆四代の後胤太祖大夫将監則隆、後三条院の御字延久年中、始めて菊池郡に下向してより以降、武朝に至るまで十七代、凶徒に興せず、朝家に奉仕する者也。然れば寿永元暦の頃は、嚢祖肥後守隆直、東夷の逆謀に興せず、剣璽を守り奉り、安徳天皇の勅命を受けて、数年忠勇を励む」

云々とあり、徳川光圀の修したる『大日本史』の百七十一巻(列伝第九十八)の條にも

「肥後のひとなり。その先は中納言藤原隆家より出ず。隆家の孫則隆、太宰小監となり、延久二年肥後に赴き菊池郡に至る。子孫よりてここに家し、世々著姓たり」

云々と記す。隆家は中関白道隆の子なり。『菊池風土記』所収の菊池系図の「文時の譜」の中に「隆家以来、代々一門の公卿、太宰権師也」とあり。